06:君こそがたったひとつの光

 莉子の嗚咽が、ベッドのシーツを通して、微かな振動として伝わってくる。

 彼女の折れそうな心の軋みが、俺の動かない身体に響いてくる。

 俺の魂を、直接揺さぶってくる。


 やめてくれ、莉子。

 泣かないでくれ。


 その言葉は、喉の奥で音になることなく霧散する。

 俺にできるのは、ただ彼女の悲しみを、その涙の重みを、この動かない身体で受け止めることだけ。


 なんという無力。

 なんという無様。


 彼女が語ってくれた未来。

 一緒に見る映画。一緒に選ぶ服。俺が作る手料理。

 その一つひとつが、俺にとっては生きる希望の光だ。

 だが、その光は、同時に俺の無力さを容赦なく照らし出す。


 ポップコーンの味で揉めることも、君に似合う服を選ぶことも、君のためにキッチンに立つことも、今の俺には何もできない。君が懸命に紡いでくれる未来の設計図に、俺はただ「うん」と頷くことさえ許されない。


 そして、指輪。

 ああ、莉子。

 君は、あの指輪のことを、そんなにも大切に思ってくれていたのか。


 事故に遭った時、俺のポケットの中にあった、小さなベルベットの箱。

 それは、君との未来を誓うための、俺の決意の証だった。

 それを君に渡す瞬間を、俺はどれだけ夢見ていたことか。

 少し照れながらも、驚きと喜びに満ちた君の顔を想像しては、ひとりで胸を高鳴らせていた。


 その指輪が、今や君を縛り付ける呪いになってしまっているのではないか。


「待ってても、いいかな……?」


 君のそのか細い声が、俺の意識に深く突き刺さる。

 いいに決まってる。

 待っていてほしい。

 心の底から、そう願っている。


 だが同時に、別の声が頭の中で響く。

 本当にそれでいいのか、と。


 君はまだ若い。美しくて、優しくて、未来に溢れている。

 そんな君の貴重な時間を、この動かない俺に捧げさせてしまっていいのか。

 君の周りには、きっと君を幸せにできる男が、他にいくらでもいるだろう。

 健康な身体で君を抱きしめ、君の涙を拭い、君と一緒に笑い合える男が。

 俺は、君の人生の足枷になっているだけなんじゃないか。


「待ってる。何年でも、待ってるから」


 君のその言葉は、俺にとって何よりの救いだ。

 だが、その言葉の重みが、俺の魂を押し潰しそうになる。

 君のその一途な想いに、俺は応えることができるのか。


 このまま、永遠に目を覚まさなかったら?

 君は、約束だけを胸に、たったひとりで年老いていくのか?

 そんな未来を想像しただけで、気が狂いそうになる。


 君を自由にしてやるべきなのかもしれない。

 「もう、待たなくていい」と、そう伝えられたなら。


 でも、駄目だ。

 考えただけで、俺の意識の海の底に、亀裂が走る。

 君を手放す?

 君のいない世界で、俺の意識が存在する意味があるのか?

 答えは否だ。

 君がいるから、君が来てくれるから、俺はこの暗闇に耐えられている。

 君という光を失えば、俺の魂は今度こそ本当に、永遠の闇に溶けて消えてしまうだろう。


 なんて身勝手で、醜いエゴイズムだろう。

 君を縛り付けてでも、生きていたいと願ってしまう。

 君の未来を犠牲にしてでも、俺の側にいてほしいと望んでしまう。

 俺は、君が思っているような「誠実な男」なんかじゃない。

 ただの、欲深くて、どうしようもなく弱い男だ。


「早く、帰ってきてよ……」


「あきとのいない毎日は……もう、色が、ないんだよ……」


 君のその悲痛な叫びが、俺の自己嫌悪を木っ端微塵に打ち砕いた。

 違う。違うだろう、高槻彰人。

 俺が今、考えるべきことは、君を手放すことじゃない。

 君を自由にしてやることでもない。


 ただひとつ。

 君の元へ、帰ることだ。

 君の世界に、色を取り戻してやることだ。

 君が「待ってる」と言ってくれる、その信頼に、全身全霊で応えることだ。


 ごめん、莉子。

 本当に、ごめん。


 君にこんな顔をさせるために、俺は生きてるんじゃない。

 君を泣かせるために、君との未来を夢見たんじゃない。


 君の涙を、俺は止められない。

 君の身体を、抱きしめてやることもできない。

 でも、この涙を、この悲しみを、俺は決して忘れない。

 この無力な俺の魂に、深く、深く刻み付ける。


 そして、誓う。

 必ず、この鉄の檻を破ってみせる。

 この動かない肉体に、もう一度、魂の火を灯してみせる。

 君が待っていてくれる、その未来に、必ずたどり着いてみせる。


 だから、もう少しだけ。

 もう少しだけ、俺に力を貸してくれ。

 君の涙が、悲しみが、俺をこの暗闇から引き上げるための、何よりの力になる。


 皮肉なものだ。君を悲しませているこの状況こそが、俺が奮い立つための最大の理由になるなんて。


 許さなくていい。俺が目を覚ましたら、好きなだけ俺を罵ってくれ。

 「嘘つき」と、何度でも言ってくれて構わない。

 その代わり、君の涙は、これが最後だ。

 俺はもう二度と、君をひとりで泣かせはしない。


 伏せた君の身体が、小さく震え続けている。

 その震えが止まるまで、俺はひたすら、君の名前を心の中で呼び続ける。


 莉子。

 莉子。

 莉子。


 俺の、たったひとつの光。

 必ず、帰る。

 必ず帰るから。



 -つづく-

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る