04:ひとり、思い出を語る
翌日の夕方。昨日とほとんど同じ時刻に、病室のドアが静かに開いた。
パタパタという軽快なスリッパの音。
いつもの椅子に、腰を下ろす。
やっぱり、莉子だった。
「あきと、ただいま。今日も来たよ。昨日のグミ、減ってないね。そりゃそうか」
彼女は小さく笑いながら、独りごちる。
その声は、昨日よりも少しだけ疲労の色が滲んでいるように感じられた。
「今日はね、なんだか昔のことを思い出しちゃって。会社の帰り道、いつもふたりで歩いてた公園の横を通ったんだ。夕日が綺麗でさ。そしたら、あきとと初めてふたりで旅行に行った時のこと思い出したの。覚えてる? 沖縄。あきとが『俺に任せとけ!』って、すっごい張り切って計画立ててくれたじゃない」
莉子の声が、ふわりと柔らかくなる。
それは、大切な宝物をそっと取り出すような、優しい声色だった。
「あきと、張り切ってオープンカーのレンタカー予約してくれたよね。格好つけてさ、『風を感じながら走るのが最高なんだ』とか言って。でも、いざ運転席に座ったあきとが、私に『で、莉子は運転できるんだっけ?』って聞いた時。私が『え? ずっとペーパードライバーだけど……』って答えた瞬間の、あきとの『マジか……』って声、今でも耳に残ってるよ。あれだよね、運転を交代できないってことに気付いて、絶望しちゃったんだよね。結局、滞在中ずーっと、あきとがひとりで運転してくれたよね。しかも、私が助手席でがんがんお菓子食べて、ナビもろくにしなかったから、『莉子は世界一役に立たないナビだな!』って笑ってたっけ」
彼女は、くっくっ、と喉の奥で笑った。
俺の意識の中でも、あの時の記憶が鮮やかに蘇る。
そうだ、あの時は本当に焦った。格好いいところを見せようとしたのに、初っ端から情けないところを見せてしまった。
でも、莉子はそんな俺を見て大笑いして。「彰人くん、可愛い!」なんて言うもんだから。拍子抜けして、結局俺も笑ってしまったんだ。
「おまけにさ、私が行きたいって言ってた、海辺の絶景カフェ。あきとがちゃんと調べてくれたはずなのに、着いたらまさかの『本日、定休日』の看板。あの時の、ふたりして顔を見合わせて、五秒くらい固まった後の爆笑。あれも忘れられないなぁ。結局、その辺のコンビニで買ったおにぎりを、防波堤に座ってふたりで食べたんだよね。でも、なんだろう。あの時のおにぎり、どんな高級レストランのディナーより美味しかった気がする」
そうだったな。完璧なデートプランのはずが、ことごとく裏目に出た一日。
でも、不思議と嫌な気はしなかった。
むしろ、トラブルさえもふたりで笑い飛ばせるのが心地よかった。
莉子といると、どんなハプニングも、後から振り返れば最高の思い出に変わる。
「あと、ホテルの部屋でさ、私がうっかり日焼け止めをベッドのシーツにこぼしちゃった時。私、真っ青になって『どうしよう、弁償かな……』って泣きそうになってたら、あきとが『大丈夫、大丈夫。俺がこっそり洗っとくから』って言って、夜中にバスルームでごしごしシミ抜きしてくれたよね。結局、全然シミは落ちてなくて、翌朝正直にフロントに謝ったら、『あ、大丈夫ですよー』って軽く流されたけど。あの時のあきとの背中、すっごく大きくて、頼もしく見えたんだよ。不器用だけど、優しくて、私のために一生懸命になってくれる。そういうところ、本当に大好きだなって、あの時改めて思ったんだ」
彼女の声が、少しだけ潤んでいる。
俺の意識が、胸のあたりがぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われる。
大好き、か。
その言葉を、今、直接聞けるということ。
それがどれほど奇跡的で、そして、どれほど残酷なことか。
「初めて手を繋いだのも、あの公園だったよね。覚えてる? 会社帰りに、なんとなくふたりで立ち寄って。ベンチに座って、他愛もない話してて。気付いたら夜になっててさ。あきと、全然手、握ってくれないから、私の方から『……手、冷たくなっちゃった』って言ってみたんだよね。そしたら、あきとが『え、あ、そうか』って、ものすごいぎこちない動きで、私の手をそっと握ってくれた。あの時の、あきとの手の温かさ、今でも覚えてるよ。すっごく、安心したんだ」
覚えている。全部、鮮明に覚えているよ。
君の手が思ったより小さくて、冷たくて。
俺が守ってやらなきゃ、と強く思った。
心臓が飛び出しそうなくらい緊張して、何を話したかほとんど覚えていない。
ただ、君の手の感触だけが、リアルに残っている。
「喧嘩もしたよね。一回だけ、大きな喧嘩。私が、あきとが元カノからもらったマグカップをまだ使ってるのを見つけちゃって。些細なことだったのに、その時はなんだかすごく悲しくなっちゃって、一方的に怒っちゃったんだ。あきとは『別に何とも思ってない』って言うんだけど、それがまた火に油を注ぐっていうか……。私、泣きながらアパートを飛び出しちゃって。でも、行くところなんてなくて、結局またあの公園のベンチでひとりで座ってたら、あきとが息を切らして走って探しに来てくれた」
あの時のことは、俺も忘れられない。
本当に何とも思っていなかったんだが、女性の心理というものがまったく分かっていなかった。莉子を泣かせてしまったことがショックで、必死で街中を探し回った。ようやく見つけた時、彼女はブランコに座ってうつむいていた。
「『ごめん』って謝りながら、あきとが自販機で買ってきてくれたココア、すっごく甘かったな。『もう絶対にお前のこと泣かせないから』って言ってくれた時、本当に嬉しかった。……なのに、今、こんなに泣かせてるんだから。嘘つきだね」
莉子はそう言って、ふふ、と力なく笑った。
ごめん、莉子。
本当に、ごめん。
あの時の誓いを、こんな形で破ってしまっている。
「あとね、あきとが初めて作ってくれたカルボナーラ。あれ、正直に言うとね、すっごくしょっぱかったんだよ。多分、チーズの塩分を計算してなかったんだと思う。でも、私、あきとが一生懸命作ってくれたのが嬉しくて。無理して『美味しい! 天才!』って言いながら全部食べたの。そしたら、あきと、すごく嬉しそうな顔して『だろ?』なんてドヤ顔するんだもん。可愛いなって思ったけど、あの後、喉が渇いて大変だったんだからね」
そうだったのか。俺は自分の料理の才能に感動してたかと思ったぞ。
君が無理して食べてくれていたなんて、まったく気付かなかった。
なんて鈍感な男だろう。
でも、君がそうやって俺に気を遣ってくれていたことが、愛おしくて堪らない。
「……なんだか、思い出話ばっかりしちゃったな。ごめんね、うるさかったよね。でもね、こうやって話してると、あきとがすぐそこにいるみたいで。ちゃんと聞いてくれてるみたいな気がして。……また、行きたいな。沖縄じゃなくてもいい。どこでもいいんだ。あきとと一緒なら、コンビニのおにぎりを食べるだけでも、きっと世界一の思い出になるよ」
声が、震えている。
それを隠すように、ず、と鼻をすする音がした。
「……いけない、いけない。湿っぽくなっちゃった。昨日の部長の話の方が、面白かったよね。そうだ、明日はもっと楽しい話、持ってくるからね!」
彼女はまた、慌てて話題を変え、無理やり明るい声色を作った。
その必死さが、痛いほど伝わってくる。
思い出に浸るのは、過去に囚われることだと、恐れているのだろうか。
俺との未来を信じたいからこそ、過去の話ばかりしてしまう。
そんな自分に、焦っているのかもしれない。
大丈夫だよ、莉子。
思い出話、嬉しいよ。
君が俺たちの時間を、そんなにも大切に覚えていてくれるなんて。
それが分かっただけで、俺の心を温めてくれる。
でも、君の言う通りだ。
俺たちの物語は、過去形で終わらせちゃいけない。
君と一緒に、新しい思い出を、これからたくさん、たくさん作っていくんだ。
しょっぱくない、世界一美味しいカルボナーラを、もう一度君に作るために。
今度は俺が、君の手を温めるために。
もう二度と、君を泣かせないと、誓うために。
だから、もう少しだけ。
この思い出を燃料にして、俺は必ず、君の隣に戻るから。
君の言葉が、俺の魂の燃料だ。
明日もまた、君の声を聞かせてくれ。
それだけで、俺はまだ、戦える。
-つづく-
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