空白の街
寛原あかり
空白の街
一
朝の通勤電車は、今日も押し潰されるほど満員だった。
肩に誰かの鞄が食い込み、靴の先は踏まれっぱなし。
窓に映る自分の顔も、寝不足で灰色がかっている。
吊り広告に、妙に目を引くコピーがあった。
──「静かな暮らしを、あなたに」
白地に黒文字だけの簡素なデザイン。広告主の名前もなければ、写真もない。
その翌週から、急に電車が空き始めた。
乗車口に並ぶ人が減り、車内でつり革を独占できる日が続く。
「ラッキーだな」なんて軽口を叩きながら、僕は足元の床をぼんやり見た。
踏み跡の黒ずみは相変わらず、つり革の布地も擦れて薄くなっている。
まるで昨日まで人でぎゅうぎゅう詰めだった形跡だけが、そこに残っていた。
朝のニュースで、アナウンサーが短く告げる。
「都市部で行方不明者の数が増加しています──」
その声は、次の天気予報にかき消された。
二
職場に着くと、空席が目立った。
「あれ、佐伯課長は?」と隣の席の先輩に聞く。
「佐伯課長?……誰それ」
先輩はモニターから目を離さず、眉ひとつ動かさなかった。
いや、毎朝あいさつしていた。
書類のフォーマットが気に入らないと、小一時間説教されたのも覚えている。
なのに、僕以外の全員が、彼の名前すら知らないという。
その日から、仕事は驚くほどやりやすくなった。
資料を赤ペンで直されることもなく、会議で無駄に怒鳴られることもない。
帰宅時、ふと気づく。
あの空席は、朝から一度も埋まらなかった。
エレベーターの中、スマホのニュースにまた小さな見出しが出ていた。
「都市部の行方不明者、統計開始以来の最多更新」
記事をタップしかけたが、通知音に気を取られて画面を閉じた。
三
土曜の昼、大学時代の友人・浩平と飲む約束をしていた。
駅前のカフェで待っていると、約束の時間を過ぎても来ない。
電話をかけても、番号は「現在使われておりません」と機械音が返すだけ。
仕方なく、同じサークル仲間だった佐々木にメッセージを送った。
「浩平、最近連絡取れなくてさ。何か知ってる?」
しばらくして返事が来た。
《浩平って誰?》
画面の文字を見て、背筋に冷たいものが這い上がった。
頭の中に、いくつもの思い出が浮かぶ。
合宿で朝まで麻雀をした夜、就活の愚痴を聞き合った帰り道──
なのに、写真フォルダを開くと、浩平と一緒に写っていたはずの写真が、すべて別の構図に差し替わっていた。
空席、見知らぬ通行人、あるいは僕ひとりだけ。
カフェを出ると、歩道の向こうに見覚えのある後ろ姿があった。
慌てて追いかける。
信号が赤に変わる寸前、その背中は人混みに紛れて──いや、人混みなんて、もうなかった。
ただ、広い交差点を風だけが渡っていった。
四
母からの電話は、週に一度の習慣だった。
その日も、夕食を作りながら着信を取る。
「最近どう?ちゃんと食べてる?」
いつも通りの声──のはずだった。
翌朝、実家からの荷物が届いた。
中には米と缶詰、手紙が入っている。
封を開けると、見慣れない筆跡が目に入った。
『父さんです。母さんはずっと昔に亡くなっただろう?』
思わず手紙を落とした。
昨日、確かに母と話した。
料理のレシピまで聞いたのに。
急いで実家に電話をかける。
受話器の向こうから出た父は、低い声で言った。
「……母さんなんて、いなかったよ。お前、何を言ってるんだ」
部屋の中を見渡すと、母の写真立てが消えていた。
冷蔵庫に貼った手紙も、母の字ではなく父の字にすり替わっている。
強烈な吐き気が込み上げた。
ここ数週間で、僕の知っている世界は何度も書き換えられている。
けれど、それを止める術も、理由も分からない。
その夜、眠りに落ちる直前、ふと気づく。
窓の外は、もう完全な無音だった。
五
朝、目を覚ますと、部屋の空気がいつもと違っていた。
静かだ。
鳥の声も、遠くの車の音もない。
携帯を開くと、着信履歴もメッセージもすべて消えていた。
外に出ると、街は空っぽだった。
信号は点滅を続け、コンビニの自動ドアが無人のまま開閉を繰り返す。
どこにも、人影がない。
足音だけがやけに響く。
アスファルトを踏むたび、その音も薄くなっていくように感じた。
僕は、何を失ったのだろう。
いや、何を覚えていたはずだったのか。
思い出そうとしても、すぐ霧のように散っていく。
名前も、顔も、声も。
夕暮れ、家に戻る。
部屋は同じはずなのに、家具の位置も色も、何かが違う。
違う、と分かるだけで、どう違うのかが思い出せない。
ベッドに横たわると、瞼の裏で真っ黒な空間が広がった。
そこには音も、光も、匂いもない。
──ああ、これが最後か。
そう思った瞬間、自分の輪郭がゆるやかに崩れ始める。
手も足も、感覚が溶けていく。
次に消えるのは、僕だった。
空白の街 寛原あかり @kanbara_akari
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