空白の街

寛原あかり

空白の街


朝の通勤電車は、今日も押し潰されるほど満員だった。

肩に誰かの鞄が食い込み、靴の先は踏まれっぱなし。

窓に映る自分の顔も、寝不足で灰色がかっている。


吊り広告に、妙に目を引くコピーがあった。

──「静かな暮らしを、あなたに」

白地に黒文字だけの簡素なデザイン。広告主の名前もなければ、写真もない。


その翌週から、急に電車が空き始めた。

乗車口に並ぶ人が減り、車内でつり革を独占できる日が続く。

「ラッキーだな」なんて軽口を叩きながら、僕は足元の床をぼんやり見た。

踏み跡の黒ずみは相変わらず、つり革の布地も擦れて薄くなっている。

まるで昨日まで人でぎゅうぎゅう詰めだった形跡だけが、そこに残っていた。


朝のニュースで、アナウンサーが短く告げる。

「都市部で行方不明者の数が増加しています──」

その声は、次の天気予報にかき消された。




職場に着くと、空席が目立った。

「あれ、佐伯課長は?」と隣の席の先輩に聞く。

「佐伯課長?……誰それ」

先輩はモニターから目を離さず、眉ひとつ動かさなかった。


いや、毎朝あいさつしていた。

書類のフォーマットが気に入らないと、小一時間説教されたのも覚えている。

なのに、僕以外の全員が、彼の名前すら知らないという。


その日から、仕事は驚くほどやりやすくなった。

資料を赤ペンで直されることもなく、会議で無駄に怒鳴られることもない。

帰宅時、ふと気づく。

あの空席は、朝から一度も埋まらなかった。


エレベーターの中、スマホのニュースにまた小さな見出しが出ていた。

「都市部の行方不明者、統計開始以来の最多更新」

記事をタップしかけたが、通知音に気を取られて画面を閉じた。




土曜の昼、大学時代の友人・浩平と飲む約束をしていた。

駅前のカフェで待っていると、約束の時間を過ぎても来ない。

電話をかけても、番号は「現在使われておりません」と機械音が返すだけ。


仕方なく、同じサークル仲間だった佐々木にメッセージを送った。

「浩平、最近連絡取れなくてさ。何か知ってる?」

しばらくして返事が来た。

《浩平って誰?》

画面の文字を見て、背筋に冷たいものが這い上がった。


頭の中に、いくつもの思い出が浮かぶ。

合宿で朝まで麻雀をした夜、就活の愚痴を聞き合った帰り道──

なのに、写真フォルダを開くと、浩平と一緒に写っていたはずの写真が、すべて別の構図に差し替わっていた。

空席、見知らぬ通行人、あるいは僕ひとりだけ。


カフェを出ると、歩道の向こうに見覚えのある後ろ姿があった。

慌てて追いかける。

信号が赤に変わる寸前、その背中は人混みに紛れて──いや、人混みなんて、もうなかった。

ただ、広い交差点を風だけが渡っていった。




母からの電話は、週に一度の習慣だった。

その日も、夕食を作りながら着信を取る。

「最近どう?ちゃんと食べてる?」

いつも通りの声──のはずだった。


翌朝、実家からの荷物が届いた。

中には米と缶詰、手紙が入っている。

封を開けると、見慣れない筆跡が目に入った。

『父さんです。母さんはずっと昔に亡くなっただろう?』

思わず手紙を落とした。

昨日、確かに母と話した。

料理のレシピまで聞いたのに。


急いで実家に電話をかける。

受話器の向こうから出た父は、低い声で言った。

「……母さんなんて、いなかったよ。お前、何を言ってるんだ」


部屋の中を見渡すと、母の写真立てが消えていた。

冷蔵庫に貼った手紙も、母の字ではなく父の字にすり替わっている。


強烈な吐き気が込み上げた。

ここ数週間で、僕の知っている世界は何度も書き換えられている。

けれど、それを止める術も、理由も分からない。


その夜、眠りに落ちる直前、ふと気づく。

窓の外は、もう完全な無音だった。




朝、目を覚ますと、部屋の空気がいつもと違っていた。

静かだ。

鳥の声も、遠くの車の音もない。

携帯を開くと、着信履歴もメッセージもすべて消えていた。


外に出ると、街は空っぽだった。

信号は点滅を続け、コンビニの自動ドアが無人のまま開閉を繰り返す。

どこにも、人影がない。


足音だけがやけに響く。

アスファルトを踏むたび、その音も薄くなっていくように感じた。


僕は、何を失ったのだろう。

いや、何を覚えていたはずだったのか。

思い出そうとしても、すぐ霧のように散っていく。

名前も、顔も、声も。


夕暮れ、家に戻る。

部屋は同じはずなのに、家具の位置も色も、何かが違う。

違う、と分かるだけで、どう違うのかが思い出せない。


ベッドに横たわると、瞼の裏で真っ黒な空間が広がった。

そこには音も、光も、匂いもない。


──ああ、これが最後か。


そう思った瞬間、自分の輪郭がゆるやかに崩れ始める。

手も足も、感覚が溶けていく。


次に消えるのは、僕だった。

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空白の街 寛原あかり @kanbara_akari

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