第10話 別離の抱擁と最後の快楽
外は澄み切った夜空。
細い三日月がビルの谷間に浮かび、冷たく乾いた風が街灯の光をゆらりと揺らしていた。
アスファルトは白く照らされ、その上を一枚の銀杏の葉が音もなく滑っていく。
休みの日の午後、私はスマホを握りしめ、短いメッセージを送った。
《今夜、会えますか?》
すぐに既読がつき、
《もちろん》
という返事が返ってくる。
──彼はまだ知らない。
奥さんが私の店に来たことも、ヒロシがすべてを暴いたことも。
待ち合わせは、ホテル街の一角。
人通りの少ない路地は、冷気をたっぷり含み、遠くでタクシーのドアが閉まる音が響いた。
繁和が歩いてくる。
薄手のジャケット姿で、頬は少し赤い。
笑うその顔が、いつも通りで──だからこそ胸が痛む。
「どうしたんだ?急に」
「……会いたかったから」
それ以上は言わず、私は彼の腕を取ってホテルの中へ歩き出した。
部屋に入ると、外の冷気が切り離され、やわらかな暖かさが頬を撫でた。
ジャケットを脱ぐ間もなく、繁和が抱き寄せてくる。
唇が触れ、すぐに深く絡まる。
その熱を、私は全身で受け止めた。
シャツもブラウスも、次々と床に落ちていく。
ベッドに押し倒され、彼の体温が覆いかぶさる。
胸を包む掌の熱、指先の動き、腰の沈み──どれも私の身体が知っている感触。
「……貴代美」
名前を呼ばれるたび、涙がこみ上げそうになる。
彼が奥深くまで入り込むたび、快感と痛みが胸の奥でせめぎ合った。
時間が止まったような、長い夜。
何度も抱き合い、互いの呼吸を確かめ合った。
外では、風がビルの角を抜ける音が、かすかに響いている。
最後に彼の胸に顔を埋め、私は小さく息を吐いた。
「……これで、終わりにしましょう」
彼の動きが止まり、腕の力がわずかに緩む。
「どうして……」
「理由は、聞かないで──もし話せば、私が崩れてしまうから」
言えば、泣いてしまうから。
着替えを整え、ドアの前で振り返る。
「ありがとう……あなたのこと、忘れない」
笑ってみせたが、声は震えていた。
廊下に出ると、冷たい夜風が頬を撫でる。
三日月と、滲んだ星の光が夜空に散らばっている。
これから先、もう彼はいない未来だけが、静かに続いていく。
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