間話 書生


「さあ、熱いうちに食べてね」


 幼かった頃、姉の声は、いつも温かかった。その日も、鉛色の空の下、冷たい風が吹き荒れる中、姉はたった一本の熱い焼き芋を僕に差し出してくれた。湯気が立つそれを、姉は半分に割って大きい方を僕にくれたのだ。


「姉ちゃんも食べてよ」


 僕がそう言うと、姉は困ったように笑い、首を横に振った。


「私はもう食べたから大丈夫。お芋はたくさんお食べ」


 姉は、痩せ細った体で懸命に働き、僕に僅かな食べ物を分け与えてくれた。僕はその優しさに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


 大正浪漫だとか、文明開化だとか、巷ではそんな言葉が飛び交い、帝都は日ごとにその姿を変えていった。ガス灯が並び、モダンな建物が立ち並び、人々は新しい流行に熱狂していた。けれど、僕たちの暮らす路地裏は、何一つ変わらなかった。埃と泥にまみれた細い道、朽ちかけた長屋、そしていつだって空腹を抱えた子どもたち。煌びやかな表通りとは、まるで別の世界だった。それでも僕たちは、互いの存在が、この冷たい世界でたった一つの宝物だった。


 夕暮れ時、姉が働きから帰ってくると、長屋の狭い台所には、わずかながらも温かいご飯の匂いが立ち込めた。姉が苦労して手に入れた、ほんの少しの米と、近所の八百屋の軒先から落ちた野菜。それでも、僕たちは毎日、笑いながら食卓を囲んだ。それは、僕にとって最高の御馳走だった。


 夜は、二人で一つの薄い布団にくるまって身を寄せ合った。姉の体温だけが、この冷たい世界で唯一の温かさだった。


 姉は僕に読み書きを教え、いつかこの路地裏を出ることを夢見ていた。


「ねぇ、書生。大きくなったら、一緒に洋食屋さんを開きましょうね。二人で、毎日おいしいものを食べられるんだよ」


 姉は、そんな慎ましやかな夢を語ってくれた。


 姉の未来を描く瞳は、いつも希望に満ちていて、まるで小さな灯火のようだった。それが嬉しかった。姉の横顔を見つめながら、僕は何度も心の中で願った。こんなささやかな幸せが、ずっとずっと続くようにと。



 ◇



 あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。雨上がりの路地は泥濘んでいた。僕が姉の目を盗んで、ほんの少し先で遊んでいた、その時だった。


「ひっ……!」


 背後から、姉の悲鳴が聞こえた。振り返ると、そこには見慣れない男たちが数人。薄汚れた外套を纏い、ぬらぬらとした目つきで姉を取り囲んでいた。そのうちの一人、ひときわ大柄な男の額には、くっきりと月形の大きな傷があった。鋭く細い、冷たい眼差しが、まるで僕の魂を抜き取るかのように姉を見つめている。人買いだ。そう直感した。


「やめろっ!」


 僕は必死に叫んで駆け寄った。だが、幼い僕の細腕など、屈強な男たちの敵ではなかった。あっという間に突き飛ばされ、泥水に顔から突っ込んだ。口の中に、土の苦みが広がった。


 顔を上げると、そこには、目を疑うような光景が広がっていた。姉の着物が、乱暴に引き剥がされていた。


「いや! やめて……お願いだから、やめて!」


 姉の悲痛な叫びが響く。一枚、また一枚と、布がむしり取られるたびに白い肌が露わになる。姉は、その肌を隠そうと必死にもがいたが、男たちの力にはかなわない。あられもない姿になった姉は、縄で両腕を後ろ手に縛られ、まるで獲物のように吊るし上げられた。


「いやあああ、助けて。怖いよ、助けて!」


 姉の悲鳴は、もはや恐怖に歪んだ嗚咽に変わっていた。その瞳は、涙と泥でぐちゃぐちゃになりながらも、僕の、この無力な僕の姿を必死に捉え、助けを求めている。その絶叫が、耳朶に焼き付いた。僕は生まれて初めて、強烈な殺意を抱いた。この男たちを、この手で八つ裂きにしてやりたい。泥にまみれた拳を握り締め、もう一度立ち上がろうとした。


 しかし、男たちは姉を、荷台のついた黒い車に押し込んだ。それが、僕が聞いた姉の最後の声だった。そして、車は、けたたましい音を立てて発進し、あっという間に路地の奥へと消え去った。


 僕は、泥水の中に座り込んだまま、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。手のひらからは突き指したのか、熱い血が滲んでいたが、痛みは感じなかった。ただ、胸の奥で、猛烈な憎悪と自分への深い絶望が暗い塊となって膨れ上がっていくのを感じた。


 「もし僕に力があれば……。もし僕に、あいつらを殺す力が、あれば……!」


 なぜ、僕には力がなかったのだろう。なぜ、あの時、僕は姉を守れなかったのだろう。


 あの屈辱的な光景、姉の悲鳴、そして僕の無力さ。それが、僕の決して癒えることのない深いトラウマとなった。二度と、あんな無力な自分には戻らない。


 いつか、必ず見つけ出してやる。あの額に月形の傷をつけた男を。そして、この手で……!


 心にそう誓い、僕は、姉を奪った者たち、理不尽な世への暗い殺意を、自分自身の心の奥底に深く深く封じ込めた。



 ◇



 それから、僕は一人になった。帰る家もなく、絶望の中で帝都の街を彷徨い歩いた。日中は、人目を避けながら残飯を漁り、夜は、冷たい路地裏で身を縮めて眠った。生きるために、時には盗みを働き、時には他の孤児と獲物を奪い合って喧嘩をした。僕の眼差しは常に鋭く、誰にも心を許すことはなかった。


 大正浪漫という言葉が、新聞の片隅に躍るたび、僕は吐き気がした。華やかな銀座の裏では、僕のような子供たちが飢え、人身売買が横行している。この街の、この世界の「闇」は、どこまで深いのだろう。憎悪は常に僕の心の奥底に燻っていた。


 そんなある日、僕は些細な窃盗事件に巻き込まれた。警官に追い詰められ、絶体絶命の状況だった。しかし、僕は本能的に、逃げるのではなく、犯人の裏をかくような動きをした。その一瞬の機転と、周囲の状況を冷静に判断する力が、偶然にも通りかかった平坂家の執事の目に留まったらしい。


 執事は、僕の素性も問わず、ただ静かに言った。「君には、平坂家で働く才がある」と。僕は半信半疑だった。だが、この絶望的な状況を変えられるかもしれないという、微かな希望が僕を動かした。もう、失うものは何もなかった。



 ◇



 そして平坂家に来て間もなくのことだった。


 屋敷の書斎で、初めてあやめお嬢様と出会った。彼女は、僕よりも少し年下で、絹のような黒髪が印象的な少女だった。僕は、新しい環境への警戒心と、己の過去を隠し通そうとする本能から、彼女にも無表情で接した。


 だが、あやめお嬢様は何の躊躇もなく僕の目の前に立ち、真っ直ぐに僕の瞳を見つめてきた。その眼差しは、まるで僕の心の奥底を覗き込んでいるかのようで、僕は本能的に身構えた。


 そして、彼女は静かに、しかし断定するように告げた。


「君は……殺す人だよ」


「……僕が、殺す人?」


 思わず、声が漏れた。


「誰かを殺す人間だってこと、ですか?」


 その言葉に、僕の全身は凍りついた。心の奥底に深く封じ込めていた「暗い部分」、誰にも知られたくない深淵を、見ず知らずの、しかも幼い少女に見透かされた。動揺と恐怖、そして何か剥き出しにされたような羞恥が、一瞬で僕の心を支配した。僕は必死に否定しようとしたが、喉が渇ききって、声が出ない。


 だがその時、僕はあやめお嬢様の瞳に奇妙なものを感じた。それは、僕を蔑む目でも、恐れる目でもなかった。そこには、純粋な好奇心と、まるで底知れぬ深淵を覗き込むような、得体の知れない輝きが宿っていた。


 その眼差しは、僕がこれまで出会ってきた誰とも全く違うものだった。


 なぜ……僕の闇を……。


 僕の心の叫びは、喉の奥に押し込められたまま、言葉になることはなかった。しかし、お嬢様はまるでそれを聞き取ったかのように、わずかに笑みを浮かべた。その笑みは、僕の心を揺さぶり、そして奇妙な安堵を与えた。


 この少女は、僕の「闇」を見て、怯えるどころか、興味を抱いている。この少女の隣ならば、僕は、何かを変えられるのかもしれない。


 それが、僕とあやめお嬢様の、始まりだった。


 間話 完

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