間話 平坂あやめ
「殺意に芽生えると書いて、殺芽(あやめ)。わたくし、名前の由来をお母様にこう教わりました」
あれは、まだわたくしがほんの幼い頃でした。日当たりの良い縁側で、大切にしていたあやめの花を眺めていた時のこと。
「ねぇ、あやめ」
「なに、おかあさま」
「あなたの名前、とても綺麗でしょう?」
「うん」
「あやめはね」
「うん」
「殺意に芽生えると書いて、殺芽と読むのよ」
「殺意って何?」
「殺意というのはね、誰かを殺したい気持ちのこと」
「殺したい気持ち?」
「そう。それがたまって膨らむと、やがて花開くのよ」
「お花が開くんだ。綺麗なのかな?」
「そうよ」
お母様は、あたしの頭を優しく撫でた。
「あやめ。お花が開く前ってどんなかな?」
「んとね。つぼみが膨らむの」
「そうね。殺意というのはね」
お母様は、固く閉じたあやめのつぼみを指差した。
「この花のように、殺意で膨らんだつぼみが花開く時がくるのよ」
「あなたは、殺意のつぼみが花開く時が分かるの。
そういう特別な眼を持っているの」
お母様は、いつものように柔らかな笑みを浮かべながら、わたくしの髪を撫でてそう言いました。その瞳の奥に、ほんの微かな悲しみが宿っていたことを覚えています。
その時、わたくしは漠然と 、
「ああ、あたしは少し、他の子とは違うのだな」
と感じただけでした。
しかし、わたくしがその意味を理解したのは、それから間もなくのことでした。
◇
初めて「殺意の線」を視たのは、庭で遊んでいた時です。庭師さんが大事に育てていた盆栽の枝を、もう一人の庭師さんが、はさみで切り落とそうとした瞬間。二人の間を、薄い、しかし確かな紅い線が結んだのが分かりました。
「あ、いけない!」
線は、怒りや憎しみといった、生々しい感情によって色が変わりました。そして、枝が切り落とされた時、その線は、まるで燃え尽きるかのように一瞬強く輝き、やがて消え去ったのです。
最初は、何かの気のせいかと思いました。しかし、それは一度や二度ではありませんでした。使用人たちが些細なことで口論になった時、憎しみの感情で鈍い鉛色に、父が事業の失敗を厳しく咎めた時、憤りによって燃えるような朱色に、母が、可愛がっていた子犬に不慮の事故があった時、悲しみと復讐心で凍り付いたような群青色に変わるのが視えたのです。
それは、人が、何かを傷つけようとする瞬間に現れる、ある種の予兆だったのです。
「どうして、こんなものが見えるのだろう」
そう考えるたび、幼いわたくしの心は混乱しました。周りの大人たちは誰も気づいていない。わたくしだけが、この「線」を視ている。
なぜ、人は殺意を抱くのでしょうか?
その線は、何によって生まれ、何によって消えるのでしょうか?
線が最も色濃くなり、感情が爆発する瞬間――人が、誰かを「殺す」その瞬間には、一体何が起きているのでしょうか?
わたくしは、人が抱く感情の中でも、最も深く、最も隠された「殺意」に強く惹かれました。それはまるで、禁断の書物を紐解くような、あるいは、誰も知らない世界の真理を覗き見るような感覚でした。
この世には、殺す人間と、殺される人間の二種類がいます。そして、わたくしが心惹かれるのは、常に「殺す人間」の方でした。彼らがその一線を越える瞬間に、わたくしは人間の本質、あるいは魂の輝きを見るような気がしたのです。
わたくしは、常に一歩引いた場所から、人間という奇妙な生き物が織りなす「殺意」という名の糸を眺めていた。
◇
そんなわたくしの人生に、一つの変化が訪れたのは、十二歳になった時のことでした。
ある日、平坂家の屋敷に、一人の少年が連れてこられました。彼は、わたくしよりも少しだけ年上で、どこか影のある、それでいて鋭い眼差しをしていました。
わたくしは、いつものように、彼を一目見た瞬間に気づきました。
彼の周りに、それはそれは深く、しかし固く閉ざされた「殺意の線」が絡みついているのを。
それは、決して薄れることなく、彼の存在そのものに刻み込まれているようでした。
幼い頃に負ったであろう、深いトラウマによって封じ込められた、しかし確かに存在する暗い過去と、内に秘める殺意。
見つけた。
わたくしは、思わず彼の目の前に立ち、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「君は……殺す人だよ」
わたくしの言葉に、彼の顔色が一瞬にして変わりました。それまで影を潜めていた彼の瞳の奥に、わたくしが視た、あの深い殺意が、一瞬だけ強く輝いたのです。彼は、その殺意を、自分自身で深く深く封じ込めているのでしょう。彼の唇から、か細い声が漏れました。
「……僕が、殺す人?」と。
けれど、その瞬間、わたくしは彼に強烈な興味を抱きました。彼には、開けてはいけない蓋がしてあるようでした。
わたくしは、彼のことをもっと知りたいと思いました。彼がなぜ、その殺意を抱き、そしてなぜ、それを封じ込めているのか。そして、もし彼が、いつかその封印を解き放つ時が来るとしたら、その瞬間を、この眼で見届けたいと。
それが、わたくしと書生の、始まりでした。
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