あやめのめ〜大正浪漫捕物帖〜
広野鈴
第一話 帝都に響く悲鳴、怪人ジゴマ
「……あの方、これから殺人を犯しますわ」
平坂あやめお嬢様は、衝撃的な言葉を淡々と、静かに告げた。彼女に仕える書生の僕は、普段から突拍子もない言動で周囲を驚かせるお嬢様に慣れっこではあったが、この時ばかりは背筋に冷たいものが走るのを禁じ得なかった。
◇
瓦斯灯(がすとう)の甘く、懐かしい匂いが漂う街を、僕たちを乗せた馬車がゆっくりと進んでいく。遠くでは、路面電車のレールが軋む金属質の響きが聞こえていた。
お嬢様は、いつもより機嫌が良い。理由は、僕が用意した朝食だ。ふと、馬車を操る男の背中が、鏡越しに僕を映していることに気づいた。その表情は、感情を読み取ることができないほど静かだった。しかし、その瞳は、僕とお嬢様の会話を、どこか楽しむかのように細められていた。
帝国女学院の二回生である平坂あやめお嬢様は、折り目正しい完全無欠のお嬢様だ。だが、彼女には人には言えぬ秘密があった。彼女は、他人の殺意を視ることができたのだ。彼女の眼には、殺意を抱く者と抱かれる者、つまり、殺す者と殺される者を結ぶ“線”が視える。
「殺意に芽生えると書いて、殺芽(あやめ)。わたくし、名前の由来をお母様にこう教わりました」
そんな話をお嬢様から聞いた時、僕の背筋を走った悪寒を、今でも鮮明に覚えている。しかし、彼女の『殺芽の眼』が、この先、僕たちが立ち向かう闇を照らす光となるのだ。
僕たちが生きるこの大正時代は、まるで万華鏡のように目まぐるしく姿を変え続ける、不思議な時代だ。
瓦斯灯の隣に真新しい電灯が瞬き、馬車や人力車の横を自動車が誇らしげに走り抜ける。古き良き日本の伝統と、西洋から押し寄せるモダンな文化とが、手を取り合うように混じり合っていた。洋館のテラスから聞こえる蓄音機の音色と、路地の奥から聞こえる三味線の調べが、ごく自然に共存する。
人々は電気ストーブやアイロンといった便利な道具を家庭に取り入れ、ミルクキャラメルやカルピス、そして異国の味であるカレーライスやコロッケ、オムライスといった新しい食べ物が流行していた。
とりわけ、活動写真、つまり西洋の「シネマ」は、帝都の人々を熱狂させていた。銀座や浅草の活動写真館は連日大入り満員で、白黒のスクリーンに映し出される物語に、人々は歓声を上げ、涙し、あるいは息を呑んだ。
まるで魔法のようなその技術は、見る者の心を現実から解き放ち、新しい時代の夢を映し出しているかのようだった。女性たちも、モダンガールと呼ばれる流行の先端を行くスタイルを楽しみ、社会進出の兆しが見え始めていた。
しかし、その華やかで新しい光の裏側には、常に拭い去れない「闇」が潜んでいた。
急速な変化の波に取り残される者たちの貧困。伝統的な因習と、西洋的な合理主義との間の軋轢。そして、女性がまだ自由に仕事や結婚相手を選ぶことができなかった、厳然たる社会の壁。文明開化の眩い光が強ければ強いほど、その影もまた濃く、人々の心には不安や焦燥が渦巻いていたのだ。
そんな期待と不安に満ちた帝都を、数日前から薄暗い影が覆い始めていた。巷を騒がす謎の連続殺人犯、「怪人ジゴマ」からの予告状が、今朝方、僕が仕えるお嬢様が通う帝国女学院にも届いたという、不穏な噂がまことしやかに囁かれ始めていたのだ。
◇
「おはようございます、お嬢様。本日は天候に恵まれ、何よりでございます」
名門平坂家の朝は、帝都の喧騒とは無縁の、厳かな静寂に包まれていた。磨き上げられた廊下を、僕の足音だけが控えめに響く。そんな静けさの中、ダイニングルームの重厚な扉を開くと、柔らかな朝日に包まれたあやめお嬢様の姿があった。
お嬢様はゆっくりと僕の方に顔を向けた。結われた髪には大きなリボンが揺れ、長いまつげに縁取られた瞳は、窓の外の庭園に広がる新緑を静かに見つめている。女学生の身分ながら、小袖の上に行灯袴を履き、足元はレースアップの編み上げブーツという、彼女ならではの着こなしが、すでに朝食のテーブルで絵になっていた。
僕の書生スタイル――きちんと糊の効いた袴の上下に、胸元だけは洋風の白いシャツを合わせて――は、そんな平坂家の朝に溶け込むよう、常に整えられていた。
「ええ、書生。晴天は気分が宜しいですわ。朝食を始めましょうか。今日の珈琲は、書生が淹れてくださったのですの?」
「はい、お口に合えば幸いです」
差し出した珈琲を一口含むと、お嬢様は満足げに頷いた。
「今日の珈琲は、香りが格別ですわね。まるで、朝露をまとった新茶の葉のよう」
「お褒めにあずかり光栄でございます。お嬢様はいつも、朝から大変詩的な表現をされますね」
銀色のカトラリーが軽やかな音を立て、彩り豊かに盛り付けられた卵料理やサラダが、彼女の小さな口元へと運ばれていく。
和洋折衷の広い屋敷には、焼きあがったばかりのパンと、淹れたての珈琲、そして遠くから漂う味噌汁の香りが混じり合い、この家の時間の流れが、外の世界とは異なることを教えてくれる。
「書生、貴方も早く召し上がりなさいな。今日の朝食は、貴方の好物、カレーライスではございませんよ」
「ええ、存じております。まさか朝からカレーライスというわけには参りませんから」
僕が言い終わらないうちに、お嬢様は眉をひそめた。
「何を仰いますの。朝にこそ、滋養のあるものが宜しいではありませんこと? 例えば、天婦羅饂飩(てんぷらうどん)などは、朝から胃に優しく、それでいて心身を温めてくれる最高の御馳走ですわ。特に、旬の野菜を揚げたてでいただく香ばしさといったら。出汁の香りもまた、朝の澄んだ空気にこそ映えるというものです」
お嬢様は美食家だが、そのこだわりはあくまで和食、特に天婦羅饂飩とひっつみに傾倒している。この点は、西洋文化に傾倒する同年代の令嬢たちとは一線を画していた。
「それはお嬢様個人の御見解かと存じます……。朝食は洋食、昼食は和食、晩餐は西洋料理などと、食にも秩序というものが必要かと存じます」
「あら、書生。形式に囚われて、本質を見失ってはいけませんわ。美味しいものに、朝も昼も夜も、和も洋もございません。ただ、その時々に心を満たすものが、真の御馳走ですわ」
僕の脳裏には、お嬢様が天婦羅饂飩を心から楽しんでいる様子が蘇る。お嬢様は、揚げたての衣が、出汁の熱気でほろりと崩れる様子を、まるで芸術品を鑑賞するように愛おしそうにご覧になっていた。天婦羅から立ち上る香ばしい匂いと、湯気の向こうに見えるお嬢様の笑顔は、僕の心を温めてくれた。
お嬢様の言葉は、僕のような者には縁遠い、別世界の真理のように感じられた。美味しいものに身分は関係ない。それは、上流階級のお嬢様だからこそ言える、ある種の真実だろう。僕が幼い頃に口にした、腹を満たすためだけの粗末な食事とは、あまりにもかけ離れた世界だ。
お嬢様の言葉に、僕は思わず苦笑した。この方は、時折、凡人には理解しがたい独自の哲学を披露される。
◇
朝食後、物静かな運転手が導く馬車に揺られて到着したのは、女学生たちの憧れの的、帝国女学院だった。門をくぐると、モダンな洋風校舎が目を引く。色とりどりの制服に身を包んだ女学生たちが、楽しげな声を上げながら校舎へと吸い込まれていく。その活気ある光景の中に、しかし、どこか張り詰めたような空気が混じり合っていた。
「まったく、物騒な時代になりましたですわね。お嬢様も、くれぐれもご用心を」
校舎の廊下を歩きながら、僕は半ば本気で、半ば軽口のように言った。お嬢様はふふっと小さく笑う。
「あら、書生。臆病ですこと。それより、今晩のパーティーでは、どのような御馳走が並ぶのでしょう? 決して、洋風の脂っこいだけのカツレツなど、ございますまいでしょうね?」
お嬢様の瞳には、何かに挑むような光が宿っていた。
◇
大ホールへの廊下を進むと、前方から朗らかな笑い声が聞こえてきた。僕たちの方へと歩いてくるのは、帝国女学院のリーダー的存在、花守きらめお嬢様だった。
その傍らには、きらめお嬢様の背丈にも満たない、可愛らしいメイドが控えている。
学園理事長の娘であるきらめお嬢様は、今晩のパーティーの中心人物。その立ち姿から、すでに生粋のお嬢様オーラが全身から溢れ出ている。噂に違わぬ、セットに二時間かかるといわれる見事な巻き髪は、陽光を受けて艶めいていた。小さな桜の花の形をした髪飾りが映え、銀色のロケットペンダントも目立っていた。
「あら、平坂様。ごきげんよう!」
きらめお嬢様は、はつらつとした声でそう告げた。その隣で、メイドも、きらめお嬢様の迫力にややおどおどとしながらも、深々と頭を下げた。
「ごきげんようでございます、平坂様。わたくし、花守様にお仕えしております愛梨(あいり)と申します」
あやめお嬢様は、にこりと微笑んで応じる。
「ごきげんよう、花守様。そして、愛梨さん。今晩のパーティー、さぞかし華やかなことでしょうね」
「もちろん、でございますわ! わたくしも微力ながら、お手伝いさせていただきましたのよ。特に、お料理は帝都随一の腕を持つフレンチのシェフにお願いいたしましたもの。すべて西洋風でございますから、平坂様のお口にもきっと合いますわ」
きらめお嬢様は、にこやかに、しかしどこか得意げに胸を張る。その言葉の端々には、「最先端」を自負するプライドが滲み出ていた。
あやめお嬢様は、ふっと笑みを深める。
「まあ、フレンチですの。随分と油を多くお使いになることで有名ですわね。わたくしは、もう少し胃に優しいものが好みでしてよ。例えば、季節の香りが楽しめる天婦羅など、いかがかしら?」
「あら、平坂様ったら。天婦羅ですって? この文明開化の時代に、わざわざ油で揚げたものなんて、いささか古臭くございませんこと? わたくしは、洗練された洋食こそ、この浪漫時代の食卓に相応しいと存じますわ」
きらめお嬢様の言葉に、愛梨は「ひっ」と小さな声を漏らし、きらめお嬢様の影に隠れるように身を縮めた。
「お言葉ですが、花守様。古きものの中にも、極めれば至高の境地がございますのよ。天婦羅一つとっても、出汁、揚げ方、そして旬の素材の選び方。それら全てが、西洋料理では到達し得ない繊細な美意識を宿しておりますわ。ただ新しいものに飛びつくばかりでは、真の粋は分かりませんわね」
「ふふ、平坂様は、少々頑固でいらっしゃいますこと。 わたくしは、世界に目を向け、新しい文化を取り入れることこそが、この時代の真の贅沢だと信じておりますわ」
二人の間には、言葉には出ない、しかし確かな“お嬢様度”をかけた火花が散っているようだった。西洋趣味のきらめお嬢様と、和の美学を追求するあやめお嬢様。書生である僕には、理解の及ばぬ高次元の戦いだ。
それでも、どこか微笑ましいそのやり取りを、僕は静かに見守っていた。愛梨は、その間もずっと、きらめお嬢様の背後で、おどおどと二人の会話を聞いていた。
◇
きらめお嬢様との挨拶を終え、僕たちは新入生が来る前の大ホールへと足を踏み入れた。飾り付けの最終調整を行っている使用人たちが忙しなく動き回っている。
その時、僕たちの横を、一人の男がすれ違った。白髪交じりの威厳ある理事長とは対照的に、黒々とした髪を七三に分け、切れ長の瞳を細めている。彼もまた、重厚な燕尾服に身を包んでいた。副理事長、木崎吉良(きざきよしろう)だ。彼は、僕たちには目もくれず、真っ直ぐに映写機の方へと歩いていく。
「あら、副理事長様」
あやめお嬢様が声をかけると、木崎はわずかに立ち止まり、軽く頭を下げた。その動きは機械的で、どこか冷たい印象を与えた。
「平坂のお嬢様。ようこそ。ご挨拶が遅れ、失礼いたしました。今晩の催しは、最先端の技術を駆使しております。ぜひ、心ゆくまでお楽しみください」
その言葉は丁寧だったが、彼の視線は終始、映写機に注がれている。まるで、そこに映し出される映像よりも、機械そのものに強い関心を抱いているかのようだった。
「あら、副理事長様も、活動写真がお好みでいらっしゃいますの?」
「いいえ。私にとって、あれはただの機械です。しかし、その機構には、学ぶべき点も多い。特に、この学園は最新の技術を率先して取り入れるべきですからな」
木崎はそう言うと、再び歩き出し、映写機から伸びるケーブルを指先でなぞる。その真剣な眼差しは、彼の言葉通り、機械の細部にまで向けられているようだった。
僕の隣で、お嬢様は意味ありげに口元に笑みを浮かべた。
「……書生、副理事長様は、随分と機械がお好きのようですわね」
「はい。ですが、なんだか不思議な方ですね。ただの機械といいながら、あまりにも真剣に、そして入念に見ていらっしゃる」
「なるほど、これが噂の『活動写真』の映写機ですわね」
あやめお嬢様は、ホールの一番奥、壁一面に広がる白いスクリーンと、その手前に置かれた黒い機械に興味深げに近づいていく。
「ええ、僕も数度、街の活動写真館で拝見しましたが、あれはまさに魔法のようですね。静止画が動き出すのですから」
「ふむ……。しかし、随分と大きな機械ですこと。それに、やけに重々しいケーブルが何本も繋がれておりますわね。まるで、大きな舞台装置のようです」
お嬢様は、映写機の周囲に目を凝らす。その目は、普段の無邪気さとは打って変わって、何かを探るように鋭い。僕は、お嬢様がただ物珍しさで言っているのではないことを悟った。彼女の観察眼は、時に僕などには思いもよらない、本質的な部分を捉えることがある。
「確かに、複雑そうですね。これで、あんなにも美しい映像が映し出されるのですから、驚きです」
僕が答えると、お嬢様は満足げに頷いた。
「ええ。それから書生、ホールの天井に、妙に大きな換気口がございますわね。映写機の設置と合わせて改装したと聞きましたが、通常のものよりも、ずいぶんと低い位置に」
お嬢様の視線の先には、確かに通常の換気口にしては不自然に大きく、そして目立つ位置に設置された四角い口があった。天井の高いホールで、なぜそんな低い位置に……。
僕には、それが何を意味するのか皆目見当もつかなかったが、お嬢様の口元には、すでに何かに気づいたような、微かな笑みが浮かんでいた。
準備が整い、ホールに招待客である生徒たちが続々と入場し始める。きらめお嬢様が、入口で理事長と共に優雅に客を迎えている。その傍らには、愛梨もメイドとして控えている。
◇
迎えた新入生歓迎パーティー。大ホールは、瓦斯灯とシャンデリアの光で煌びやかに彩られ、帝都の名家の子女たちが一堂に会していた。学術界の重鎮のご令嬢は文学論を静かに交わし、新興財閥の息女は最新の洋装を優雅に着こなし、由緒ある公爵家の令嬢は流暢な外国語で海外からの来賓と談笑する。
皆、知性と品格、そして華やかさを兼ね備え、それぞれの袴や最新の洋服が織りなす色彩は、まるで咲き誇る花々のようだ。新入生たちは、目を輝かせ、夢と希望に満ちた表情で周囲を見回している。
「まあ、こんな素敵なパーティー、初めてだわ」
「あの活動写真って、本当に動いて見えるのかしら? 早く始まらないかな」
「この学園に入れば、私たちもきっと、あんな素敵な淑女になれるのね」
「緊張するけど、新しい学園生活、きっと素晴らしいものになるわ」
興奮と少しの不安が入り混じった、瑞々しい声があちこちから聞こえてくる。
才色兼備の女学生たちの笑い声と、彼女たちが持つ白磁のカップが触れ合う軽やかな音が、ホールを満たしていた。テーブルには、外国から取り寄せた珍しい果物、そして何種類ものサンドイッチが並び、甘美な香りが満ちている。
壁の一角には活動写真の映写機が設置され、時折、白黒の映像が壁に映し出されては、学生たちの歓声が上がった。まさに、大正浪漫の華やかさを凝縮したような光景だった。
定刻を迎え、壇上のマイクの前に、花守きらめお嬢様が優雅に進み出た。煌びやかな照明が彼女の華やかな巻き髪を照らし、その姿はまるで舞台女優のようだ。
「皆様、本日はようこそ、帝国女学院新入生歓迎パーティーへお越しくださいました」
きらめお嬢様の、朗々とした、しかしどこか甘やかな声がホールに響き渡る。
「わたくし、在校生代表、花守きらめと申しますわ。新しい学園生活への期待に胸を膨らませる新入生の皆様を、心より歓迎いたします。この学園は、未来を担う麗しき乙女たちが、知性と品格を磨き、輝かしい未来を築くための学び舎でございます。皆様の学園生活が、実り多く、そして華やかなものとなりますよう、心よりお祈り申し上げます」
拍手喝采がホールを包み込む。きらめお嬢様は深く一礼すると、誇らしげな笑顔で壇上を降りた。
挨拶は見事だった。学園のリーダーである彼女の人心掌握力の一端を見たような気持ちになった。
◇
次に、この女学院の最高責任者である理事長が、ゆっくりと壇上に上がった。白髪を蓄えた威厳あるその姿に、ホールは静まり返る。
「新入生の皆様、ご入学おめでとうございます。そして、在校生の皆さんも、ようこそおいでくださいました。この良き日を祝い、学院では特別な催しをご用意いたしました。
理事長は、にこやかに活動写真の映写機を指差した。
「本日は、帝都でもまだ珍しい活動写真を特別に上映いたします。文明開化の最先端、西洋の『シネマの魔法』を、皆様と分かち合えることを願っております。さあ、皆様、どうぞ、この新しい時代の幕開けを、心ゆくまでお楽しみください」
理事長の言葉に、学生たちの期待が最高潮に達する。ざわめきと、これから始まる特別な催しへの興奮がホールを満たす。会場に流れていた軽やかなワルツの音楽が、いよいよ上映が始まるという高揚感と共に、ゆっくりと、しかし不自然に、そして完全に止まった。
あやめお嬢様も、挨拶のために優雅に各テーブルを回っていく。僕はその一歩後ろに控え、彼女の細やかな気配りや、時折見せる無邪気な笑顔を眺めていた。その時、お嬢様の動きが、ぴたりと止まった。
彼女の視線が、ホールの一角に立つ、一人の女学生に釘付けになる。新入生らしい、あどけない笑顔のその少女は、先ほどまで理事長が待機していた場所に立っていた。他の新入生と待機場所が異なることに、僕は疑問を感じる。
「……あの方、これから殺人を犯しますわ」
あやめお嬢様の衝撃的な言葉が響く。
彼女は、その笑顔の少女と、壇上の理事長とを、まるで目に見えない赤い糸で結ぶかのように、じっと見つめていた。
あやめお嬢様の視界には、無数の細い糸のような「殺意の標的線」が、まるで万華鏡のように交錯して見えると聞いたことがある。嫉妬、焦燥、憧憬……様々な感情が入り混じる中、強い殺意は、ひときわ太く、濃い、漆黒の線が伸びるという。
僕にはその“線”は見えない。しかし、お嬢様の研ぎ澄まされた集中力と、獲物を捉えたかのような鋭い眼差しが、確かに何かを捉えていることを示していた。
「……見事な殺意です。まるで、漆黒の絵筆で描かれた傑作ですわ」
お嬢様は、うっとりとした表情で、小さな声でそう呟いた。
「お嬢様、何か……?」
僕の問いに、お嬢様はにこりと微笑んだだけで、何も答えなかった。
お嬢様の視線の先にいるのは、愛らしい笑顔を浮かべた、ごく普通の、可憐な新入生の少女だ。しかし、『殺芽の眼』が捉えているのは、僕には見えない、禍々しい「殺意」だった。
お嬢様の言う「殺人を犯す」という言葉が、その少女に向けられているなど、到底信じられるはずがなかった。
もし、本当に少女が秘めた殺意を爆発させようとしているのなら、止められるのは事前に殺意を捉えたお嬢様と僕だけだ。
駆けつけるしかない。
その少女は、活動写真が映し出されるスクリーンに近い位置へと移動していく。あやめお嬢様の視線は、その少女から一瞬たりとも離さない。
音楽が完全に途切れた。それが、凶行の合図だった。
(えっ……!?)
僕は、驚いた。会場の時間が止まったのだ。少なくともそう感じざるを得なかった。
ホール全体を、奇妙な静寂が包み込んだ。音楽も、会話も、喧騒も、一瞬にして凍りつき、時間の流れが止まったかのようだった。
奇妙な静寂が、ホールの空気を一瞬で塗り替えた。
軽やかなワルツの旋律が不自然に途切れ、賑やかな話し声も、カトラリーの軽やかな音も、すべてが、まるで空気の密度が変わったかのように消え去った。耳の奥で、キーンと甲高い耳鳴りが響き渡る。
(駆けつける、どころじゃない。
身体が、動かない)
僕の意識は、鋭敏なままだった。しかし、思考に反して、指一本、喉一つ、瞬きすらできない。まるで僕の肉体が、僕自身の意志から切り離され、ただの“物”になってしまったかのようだ。肺が悲鳴を上げて空気を求めている。なのに、喉は固く塞がれ、息ができない。このままでは死んでしまう、という本能的な恐怖と、思考は働いているのに体が動かせないという絶望が、僕を同時に襲った。
人々は皆、その場に縫い付けられたかのように立ち尽くし、笑みを浮かべたまま唇が固定された令嬢、グラスを傾けかけたまま動きが止まった紳士……まるで精巧な人形のように微動だにしない。
その、時間が停止したかのような空間の中を、一人の影が、ただ一人、ゆっくりと闊歩した。
黒いマントを翻し、顔を隠したその人物――怪人ジゴマ。
その異様さは、誰もが帝都を揺るがす連続殺人犯、怪人ジゴマであると感じられた。
ジゴマは、まるで舞台役者のように堂々と、凍り付いた群衆の中央を歩み、呆然と立ち尽くす理事長の前に立つ。彼の動きは優雅で、それでいて不気味なほどに洗練されていた。まるで、群衆が彼を避けるのではなく、彼が通り過ぎることを待っていたかのようだ。
ジゴマは、理事長の前に立つ。その口元は、マントの影に隠れて見えない。そして、彼は、白い手袋をゆっくりと外し、燕尾服の内ポケットから、煌めくナイフを取り出した。
そして、その胸に、躊躇なく光るナイフを突き立てた。
ナイフの切っ先が、理事長の胸元を裂き、白いシャツに深紅の染みがじわりと広がる。その瞬間、理事長の顔に浮かんでいた期待の表情は、驚愕と苦痛に歪み、その口から血泡が小さく噴き出した。
しかし、その声は、凍り付いた時間の中では、誰にも届かない。彼の瞳は、ゆっくりと虚ろになり、その場に崩れ落ちようとする体が、まるで無重力空間にいるかのように、ゆっくりと、しかし確実に傾いでいく。
その一連の動作全てが、まるでスローモーションの活動写真のように、僕の目に焼き付いた。布が裂ける音も、肉を貫く音も、血が噴き出す音も、一切聞こえない。ただ、ゆっくりと広がる血の鮮やかな赤色だけが、この異常な静寂を雄弁に物語っていた。
皆がその凶行を目撃していた。僕も、この目で確かに見た。しかし、誰一人として、声を上げることも、手を差し伸べることもできなかった。まるで、透明な壁に隔てられているかのように、ただその光景を眺めることしかできなかったのだ。
衆人環視の中での堂々たる凶行。怪人ジゴマの前で、僕たちは無力だった。
全身を支配するこの無力感は、かつて幼い頃に感じた、どうしようもない絶望を思い出させた。
あの時も、僕はただ見ていることしかできなかった。そして今もまた、僕の目の前で、一つの命が、静かに奪われていくのを、ただ、見ていることしかできなかったのだ。
そして、闇の中へとその姿を消した、その直後だった。
静止していたはずの時間が、再び動き出す。
◇
ジゴマは、血に濡れたナイフを引き抜くと、まるで何事もなかったかのように、再びゆっくりと歩き出した。そして、闇の中へとその姿を消した。
「きゃあああああっ」
「いやあああああああああっ、理事長様が!」
「ひっ、血が…… 血が流れてるわ」
「理事長様が…… 誰か、誰かお医者様を呼んで! 早く」
「ジゴマよっ、怪人ジゴマが現れたんだわ!」
「嘘でしょう…… まさか、ジゴマ……本当にやってしまったの!?」
「何が起きたのよ、私、何も理解できないわ!」
「奇術師ジゴマ、時間まで止められるの!?」
「何が起きたの? 何が? 怖い」
「誰か、誰かこの惨状をどうにかしてっ」
悲鳴が響き渡り、人々の意識が堰を切ったように戻ってくる。
ホールの明かりも、再び煌々と点灯した。ホールは一瞬にしてパニックに陥り、阿鼻叫喚の地獄と化した。僕は、ようやく動くようになった体で、呆然と立ち尽くすお嬢様を見た。
僕の心臓は、激しく脈打っていた。理事長がナイフで胸を貫かれる光景が、脳裏から離れない。
「書生……」
お嬢様は、僕の袖を小さく引いた。僕ははっとして目の前の現実に帰る。
「先ほど、あの新入生の少女がいた場所を見てごらんなさい」
お嬢様の視線の先は、スクリーン近くの、少しばかり人垣が薄くなった場所を指していた。理事長が挨拶のために壇上に上る前に待機していた場所でもある。
「……お嬢様。 彼女の姿が、どこにも見当たりません」
そう、あの笑顔の少女の姿は、まるで煙のように消えていたのだ。
お嬢様の瞳は、まだ、ジゴマが消えた方向をじっと見つめていた。
その表情は、恐怖でも、驚きでもない。まるで、稀有な現象を観察し終えたばかりの、研究者のような、奇妙な「興味」を湛えていた。
文明開化の華やかな祝典の場は、一瞬にして血塗られた舞台へと変貌した。理事長が語った「シネマの魔法」どころか、そこで映し出されたのは、あまりにも恐ろしい殺人劇だったのだ。
なぜ怪人は、公衆の面前でためらいなく犯行に及んだのか?
その力を見せつけたいのか? 僕たちには理解できない巧妙な「奇術」が隠されているのか?
そして、あの消えた少女は一体……。
多くの謎を残し、これから僕たちが帝都の闇と対峙する壮大な事件は幕を開けたのだ。
第一話 完
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