鈴鏡の女
新巣寺 蚤蔵
第一話 鈴の響き
彼女の名前を知る者は少ない。
いや、正確には「名を口にすることを憚る」者が多いのだ。
若くして強力な霊力を持ちながら、決してテレビや雑誌に出ることもなく、口コミと密やかな紹介でしか依頼は届かない。人はただ、彼女を 「鈴鏡の女(れいきょうのひと)」 と呼ぶ。
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ある春の夕暮れ、東京近郊の古い集合住宅に住む一家からの依頼があった。
「子供が夜になると決まって泣き叫ぶんです。決まって同じ時刻に……午前三時になると」
迎えに出た母親はげっそりとやつれ、子供は熱に浮かされたように母の胸にしがみついている。部屋に一歩入った瞬間、彼女は空気のざわめきを感じ取った。
湿った風。壁の隅に滲む影。言葉にできないほどの「重さ」が漂っている。
彼女は布の包みを静かに開いた。
そこには古代の神器―― 九鈴鏡(くれいきょう) があった。
銀色とも黒鉄ともつかぬ鏡の縁には九つの小鈴が並んでいる。だが、それは現代の鈴のように澄んだ音を奏ではしない。
風もないのに、低くくぐもった「鳴り響き」がじわりと広がる。鉄と石がこすれ合うような、不気味で古代的な響き。耳で聞くのではなく、胸の奥に直接触れるような音だった。
彼女は畳の中央に鏡を置き、息を整えて言霊を唱えた。
ひとつ、またひとつと鈴が震えるごとに、部屋の空気が軋む。
そして三つ目が響いたとき、鏡の中に黒い影が浮かび上がった。
それは子供の部屋の押し入れから伸びる腕だった。
痩せ細り、指の先が畳を掴む。顔はない。ただ、呻くような声が空気を震わせた。
「……かえせ」
母親が悲鳴を上げる。だが彼女は声を荒げず、冷ややかに囁いた。
「ここにいるのは、あなたの場所を奪った者ではない」
九つの鈴が一斉に「響き」を放つ。
轟くとも囁くとも言えぬ、不協和音めいた古代の音。影は苦しむようにのたうち、やがて裂かれるように霧散し、鏡の奥へと引きずり込まれて消えた。
静寂。
子供はすうっと眠りに落ち、母親はその場に崩れ落ちて涙を流した。
彼女は鏡を布に包み直すと、ただ一言だけ残した。
「ここには、古い因縁があります。土地を清めなくてはなりません。でなければ、また呼ばれる」
「あとは私に任せなさい。」
そう告げて立ち去る後ろ姿に、母親はただ頭を下げるしかなかった。
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後日、この一家が引っ越して行ったのはすぐのことだった。
やがて、その集合住宅には妙な噂が広まり始める。
――夜中になると、廊下のどこからともなく低い音がする。
――金属の軋むような響きが壁越しに聞こえる。
――まるで誰かが古い鈴を鳴らしているみたいだ。
誰もその正体を知らない。ただ、不気味な音に耐えられず、住人の中には引っ越す者も出た。
だがその裏で、確かにまた一人、「鈴鏡の女(れいきょうのひと)」 の名が囁かれるようになっていた。
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