来店記録八月十九日

 ある霧がかかった昼頃。着物を羽織った落語家が、ボナセーラを訪れた。落語家は、店内をきょろきょろしばらく観察してから。カウンターの向こうの店主の存在に気付き、店主の前の席へと、着物の布が崩れぬよう、所作を綺麗に座った。


「ホットコーヒーはあるかな」


 落語家はそう店主へオーダーする。店主はキッチンの洒落たポッドでお湯を沸かし始めた。落語家はテーブルを指で、とんとん手持ち無沙汰そうにしており。それから我慢ならない様で口を開いた。


「……私はね。こう見えて落語家というものを生業としているのだが。いやこう見えてって言っても。こんな真昼間に着物羽織った男なんて。落語家か、私服が着物の物好き以外ありゃしないって話なんだけどもね」


 店主はただ、次第に熱を帯びてゆくポッドを眺めている。落語家は、なにか話していないと気が済まない性分な様であった。


「いま、私によく喋る男だなぁだとか、思ったろう? 小噺に教えてあげようではないか。なんで私がこうもお喋りになってしまったのかと言うと。もう完全に職業病ってやつなのさ。例えば。自衛隊の隊員がラッパの一声で、どんなに熟睡していても、すぐさま飛び起きるなんてことがあるだろう? 他に言えば。とにかく仕事に追われてる人間は往々にして食べるのが速いだとか。医者は携帯をマナーモードに出来ないから、映画館へ行くのが億劫だとか。それと原理は全くの同じときたもんで。落語家というのはとにかく黙ってられない生き物でな。知ってるか? 高座で何秒詰まってしまったら、その落語家の、死、と言われているのか。……せいぜい一秒だと思ったろう? 答えは、半秒だよ。半秒。半秒で、一体なにができると思う? 半秒で世界を救えるか? って。なにか邦画のキャッチコピーの様だけども。それにもし本当に半秒で死ぬのなら。私の死神だけで、死神の二世帯住宅が生まれるのは目に見えてるが……。まぁ、そんな話は置いておいて。湯は、そろそろ沸いたか?」


 ぱん、ぱん、ぱん。店主は拍手をしていた。落語家は面を食らった様な顔を見せ。店主は湯が沸いたポッドを、用意していたコーヒーフィルターへゆっくり注ぐ。


「……まるで死神みたいな男だな。言われるだろ?」


 落語家がそう言う。店主は今日も今日とて黙ったままだ。フィルターから一滴、一滴と、茶色黒い雫が落ちてゆく。それを眺める落語家が、心穏やかに呟く。


「私はこうやって、目の前でコーヒーがフィルター越しに抽出されるのを見るのは初めてだが……。存外見ていて心地が良いものだな。コーヒーの雫が落ちるまでも半秒だが、これは許される半秒だ。死なない半秒だ」


 次第に雫がぽたぽたと途絶え。店主は抽出したドリップコーヒーをホット用の白い紙製で、プラスチックの蓋がされているカップへと移し替えた。落語家がそれを手に取り。何気なく裏面を見てみると。まるで子供の落書きの様にキャッチーな、恐らく死神を描いたのであろう、デフォルメイラストが、マジックペンで描かれていた。それを見た落語家はフフフと笑い。


「また現れるさ。死神のひと」


 そう落語家はボナセーラを出て行った。

 落語家が退店し、しばらく暇になった店主は、なにか納得がいかなかったのか。もう一度死神をレシートの裏に描いてみてから。結局やっぱりそれを捨てた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る