【二】狸という鏡

 民俗学的に見れば、狸とは常に人間の「境界意識」を映し出す鏡であった。

 この鏡が映すのは、けっして明瞭で整った像ではない。光の角度によって歪み、見ている者の内面が反映され、輪郭は曖昧なまま、しかし強く何かを訴えかけてくるような――そんな像である。人は、境界に立つとき、その不安を何らかの形で像化しようとする。その像の一つが、狸という存在であったのではないか。


 人間にとって、「境界」とはつねに脅威である。自分と他人、家の内と外、昼と夜、生と死、真と偽、神と獣――そうしたあらゆる「二項対立」の接合点にこそ、妖怪や神霊が棲みつく。だからこそ、人間はそこに物語を持ち込み、像を置き、儀式を作り、安心しようとする。狸は、そうした人間の精神的な構えのなかで、異常と正常の境を示す存在として語られ続けてきた。


 たとえば近世における狸は、夜道を歩く旅人を惑わせる存在として広く語られていた。提灯の火が消える、道が突然ねじれる、誰もいないはずの山中で声がする。こうした不可解な体験に名前を与える必要があったとき、人々はそれを「狸の仕業」と呼ぶことで秩序を回復した。理不尽な不安に名前を与えること、それは世界をもう一度受け入れるための作業だった。


 ところが、近代になると狸譚の性質は徐々に変容する。葉っぱを小判に化かす、という逸話に象徴されるように、狸は貨幣経済そのものへの皮肉や懐疑を担うキャラクターとなっていく。急速な近代化の波が押し寄せ、人々の暮らしに現金と帳簿と債権が入り込むなかで、目に見えない価値が人を振り回す時代になった。そんな時代に、狸の「化かし」は、貨幣の虚構性――すなわち「本物に見えるが中身は空(から)」という性質を映し出す格好の寓話となった。


 現代においては、さらにその像は多様化している。SNSや配信動画といったインターネットの風景にさえ、狸の影は入り込む。加工された映像、なりすましの投稿、記憶と異なるタイムライン、AIによる生成コンテンツ。どこまでが現実で、どこからが虚構なのかという「揺らぎ」は、まさに狸の得意とするところである。


 だからこそ、私たちは今も狸を語り続けるのだ。舞台は山から街へ、紙から画面へと変わったが、「揺らぎを物語に変換する存在」という意味では、狸の機能は少しも衰えていない。


 このように、狸とはつねに「人間が最も揺れている場所」に姿を見せる。社会が変動し、規範が解体され、既存の秩序が揺らぐとき、人々は狸を想起する。それは、狸が「不安の翻訳装置」だからである。恐れや違和感を、笑いに変え、寓話に変え、語りに変える。狸は、人間の内的な裂け目に寄り添い、その姿を映し出す鏡のような存在である。


 さらに言えば、狸という存在は、「他者」の表象でもある。

 自分ではないもの、得体の知れないもの、どこから来たのかわからないもの――それに名前と物語を与え、「狸」と呼ぶことで、人はそれを受け入れ、恐れ、あるいは笑い飛ばすことができた。

 その意味では、狸とは常に「外部性の演出」でもあったと言える。

 外からやってきた何か。それは他民族であり、異教であり、自然災害であり、疫病であり、そして時に――自分自身の内なる異質性だったかもしれない。


 この鏡に映るものは、決して一つではない。時代が変われば、鏡が映す像も変わる。狸が「笑える存在」として受容される時代もあれば、「祟り」として恐れられる時代もある。そのどちらも、正しい。なぜなら、それらはいずれも「人間の内面の変化」を映し出しているからである。

 鏡は見る者を選ばない。ただ、そこに在る。

 だからこそ、我々はこの鏡を前に、何度でも立ち止まり、自分たちの像を確かめねばならない。

 狸という鏡に、今の社会はいったい何を映し出しているのか。

 それを知ることこそが、民俗学の営みであり、語りの継承であり、人間という存在が「境界に向き合う」ための唯一の方法なのではないだろうか。


 次節では、この鏡の中に映ったもうひとつの像――すなわち、語り手自身がいつしか「化かされる側」に回るという逆転現象について、私自身の体験を交えて記述していきたい。

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