終章:人と異界のあいだに棲むもの

【一】取材ノートを振り返って

 本書で検討してきた狸譚は、古典文献から現代のSNS、地域の伝承から個人の体験談に至るまで、実に多様な相貌を示していた。

 山里の境界に現れる狸、都会の片隅に棲む狸、長老として祀られる狸、笑いと祟りをもたらす狸、そして証言そのものを化かす狸。

 いずれの事例も、個々に見れば互いに矛盾し、共通点を見出しがたいようにさえ思える。

 だが、私の取材ノートを改めて俯瞰してみると、それらすべての狸たちが、ある一点において共通していた。すなわち、「境界」に棲む存在であるという点である。


 この「境界」とは、本書で繰り返し繰り返し言及してきたように、単に地理的な意味での村と山のあいだ、都会と郊外のはざまといった物理的な領域のみを指すものではない。日常と非日常、生者と死者、秩序と混沌、理性と感情、現実と虚構といった、人間の意識の中に横たわる無数の裂け目のことである。

 狸は、その裂け目を自在に行き来する。あるときは娯楽の対象となり、またあるときは災いの源となり、神として祀られたかと思えば、ふとした瞬間に笑いを誘う戯画へと姿を変える。まるで、我々人間の「見方」そのものを試すかのように。


 私は長らく、フィールドワークと呼ぶにはあまりに雑多な取材を続けてきた。地方の資料館の蔵書を漁り、祭礼の語り部に耳を傾け、ときに怪異現象を記録した動画や掲示板のログに没頭し、匿名の投稿者に連絡を取るなど、民俗学とサブカルチャー研究とオカルト趣味の中間のような活動を続けてきた。だが、こうして長い年月のあいだ蓄積されたノートを読み返すと、不思議な感覚が押し寄せてくる。「この記録は本当に私が記したものなのか」とさえ思える瞬間がある。

 記憶にない段落が記されていたり、日付が妙にずれていたり、写真の隅に不自然な影が写り込んでいたり。もちろん、思い込みや疲労、あるいは単なるミスの可能性もある。


 しかし、この「ずれ」そのものが、まさに狸の本質なのではないかとも思えてくるのだ。狸は姿を見せるのではなく、「揺らぎ」を残していく。明瞭な輪郭を与えようとすると指の間からすり抜けていくその存在は、我々の記憶や認識そのものに入り込み、わずかなノイズとして滞留する。

 その意味で、狸は常に「笑い」「祟り」「神秘」「虚実」という四つの相を同時に体現していた。しかもそれは、個々の狸がどれか一つを担っているというのではない。一つの事例の中に、それらすべてが絡み合い、分離不可能なかたちで立ち現れてくるのだ。人を惑わせて失笑を誘いながら、後には奇妙な体調不良が残る。悪戯だと笑っていたものが、よく見ると誰かの夢と酷似している。神のように祀られた像の背後に、取材を阻むような地元の無言の壁が立ちはだかる。虚構だと切り捨てた動画に、信じがたい一致が含まれている。狸とは、単純な善悪でも、事実と虚構でも、説明しきれない「両義的な何か」なのである。


 そう考えると、狸という存在がなぜここまで日本各地に伝播し、時代を超えて語り継がれてきたのかも見えてくる。狸は物語の登場人物としての「キャラクター」ではない。むしろ語りそのものを動かす装置、物語を生み出す触媒として機能してきたのではないか。

 人が語る。誰かがそれを聞いて、別の物語を語る。その過程で、事実は変容し、感情が挿入され、記憶は再構築されていく。その連鎖のなかで、狸は常に姿を変え、時に実体のように、時にただの影のように現れてきたのだ。


 だが、もしそうであるならば、次の疑問が浮かぶ。「では、取材を続けてきた私は、どの立場にいるのか」と。

 私は狸の存在を「追う側」であったはずだ。だが、ある時から、取材者である私自身が、語られる物語の一部に取り込まれていくような感覚を抱くようになった。これは冗談でも大げさな比喩でもなく、取材対象だった狸の像が、気づけば私の思考の内に入り込み、思考の構造自体を変えてしまっているという直感である。


 私はこの節を、終章のはじまりに据えた。だが同時に、これはある種の「終わり」ではなく、境界の向こう側に足を踏み入れた記録でもある。

 狸を追っていたはずが、いつしか「狸に見られていたのではないか」という思いが、日ごとに濃くなる。

 私は今も、どこまでが私自身の記録で、どこからが誰かに吹き込まれた語りなのか、その線引きをつけかねている。

 だがそのことこそが、狸という存在の核心なのかもしれない。


 次節以降では、狸という存在が、なぜこうも長く人間の記憶に留まり続けてきたのか、そして時代とともにどのような精神的意味を獲得してきたのかについて、あらためて考察していきたい。

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