ある語り手の博物誌
39ra
古い街灯の話
街の片隅に、誰からも気に留められずに立っている一本の街灯がある。今では錆びて色もくすみ、光も弱々しいが、かつては近隣の目印となるほど立派なものであったらしい。実際、この街灯は大正の終わり頃に設置されたもので、当時は最新鋭のガス灯だったと記録に残っている。
ガス灯といえば、今の人々には異国のロマンを想起させるようだが、当時の日本では実用的な都市設備にすぎなかった。電気の普及がまだ進んでいなかったからである。それでも、灯具に磨かれたガラスを使い、鉄製の柱に花模様の装飾を施すあたり、当時の職人たちは「生活に彩りを加える」という意識を強く持っていたようだ。今日の無機質なLED街灯と比べれば、その姿には確かに「生活美学」と呼べるものがあったのだろう。
もっとも、ガス灯には欠点も多かった。光が弱く、風が吹けば揺らめき、煤でガラスが黒ずんでしまう。そのため、点灯夫と呼ばれる人々が毎日夕暮れ時になると街路を巡回し、火を入れ、また夜明けには消して歩いたという。彼らは梯子を担ぎ、油で汚れた手袋をはめ、街のリズムを作っていた。ある意味、点灯夫は「時報」のような存在でもあったのだろう。
この街灯にも、そうした点灯夫の記録が残されている。古い新聞記事に「中村某、十五年勤続にて引退」という一文があり、それがこの灯の管理人であったと伝わっている。中村氏は小柄で口数の少ない人物だったらしいが、街の人々はその姿を見かけると「ああ、今日も夜が来るのだな」と安心したそうである。点灯の光は、単なる明かりではなく、人々にとっては「日常の合図」であったのかもしれない。
しかし電灯の普及は容赦がなかった。昭和に入る頃には、このガス灯も電気に置き換えられ、点灯夫の姿は消えてしまった。残されたのは柱と灯具だけである。今も細い路地にその街灯は残っているが、誰も由来を知らず、ただ古びた装飾が「少し洒落た形の鉄柱」として放置されているだけだ。人の記憶というものは、案外あっけなく失われる。
もっとも、街灯の記憶が完全に消えたわけではない。近年の都市史研究によれば、この街の旧市街地には十数本のガス灯が設置され、商店街を明るく照らしていたことがわかっている。商売人にとって夜でも活動できることは大きな利点で、ガス灯は「商機の灯」と呼ばれたそうだ。照明の強さは乏しくとも、それが経済活動を延長させた事実は見逃せない。つまり、あの一本の街灯は「近代化の象徴」でもあったわけである。
私はこの話を聞くたびに、少し奇妙な感慨を覚える。いまの我々にとって街灯はあって当然の存在で、点灯の瞬間を意識することはまずない。自動で明かりがともり、朝になれば勝手に消える。そこに人間の介在はない。だが、かつては「人が火をつけ、人が消す」営みがあった。それは便利さの裏で削ぎ落とされてしまった「生活の律動」ではなかったか。
さらに言えば、街灯は「夜の安全」を支える存在であると同時に、「夜の暗さ」を際立たせる存在でもある。一本の街灯の下に立てば、その周囲はかえって暗闇に沈む。だからこそ、昔の人々は夜道を慎重に歩き、時には月明かりを頼りにしたのだろう。科学的に言えば、光源の点在は明暗の対比を強める。そのことが「夜」という時間をより劇的に演出していたようにも思える。
今残る古い街灯は、もはや都市設備としての役割を終えている。しかし私は、あれを単なる鉄屑として処分してしまうのは惜しいように感じる。なぜなら、それは「光をつける」という行為に、人間がまだ何かを託していた時代の証だからである。火を灯すという動作には、本来、儀式的な意味合いがあったのではないか。たとえば神社の篝火や、墓前の灯明に似たものだ。
思えば、光というものは常に人の営みに「境界」を与えてきた。闇と光の境界、昼と夜の境界、安心と不安の境界。その境界線を守るために、人は街灯を建て、火を灯したのだろう。その営みの痕跡が、いまも路地裏に残っている。私があの古びた街灯を見上げるとき、そこに立つのは単なる鉄の柱ではなく、百年前の人々が「夜に挑んだ証人」のように思えてならない。
そして最後に、ひとつだけ付け加えておきたい。古い街灯の灯具には、よく見ると細かな煤の跡が残っている。これは清掃が十分でなかったことを示す証拠であり、同時に「実際に火が燃えていた痕跡」であるらしい。研究者の中には、この煤を保存して分析すれば当時のガス質や燃焼環境を知る手掛かりになるのではないかと考える者もいる。もしそうだとすれば、一本の街灯の煤は「歴史の化石」のような意味を持つのかもしれない。
街灯はただ夜を照らすだけの道具ではなかった。そこには人の生活、経済、そして小さな感情が確かに結びついていたのである。今もなお路地に立つその灯は、私に「夜の意味とは何か」を問い続けているように見えるのだ。
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