猿猴の祈り
15
空には満月が浮かんでいる。淡い白色の月光は夜闇を切り裂いて僕たちまで降り注ぐ。満月のせいか、まばらに散りばめられた星々までもが今日はいやに見えるような気がする。
芥生さんは、凪いだように静かな表情をしていた。取り乱すようなこともなく、韜晦めいた冗談を口にすることもない。ただ、目前に迫っている死を受け入れているのだ。
三日後には終業式があった。そうして、夏休みが始まる。約一カ月の学校の空白。来年になれば、受験に向けてその時間も休息ではなくなるんだろうけれど、二年生の僕たちにとってはまだ長い休暇の時間であることには変わりがない。しかし、満月は夏休みを待ってはくれない。
月へと飛び立つ際に、大層な準備は必要なかった。宇宙船も燃料も酸素ボンベも切符も必要ない。強いて挙げるとすれば、心意気だ。月へと持って行くことが出来るものは、それだけしかない。それを用意する猶予があるだけ幸福なのか、不幸なのかは分からないけれど。
彼女が飛び立つ日だからといって、僕たちの密会に変更点はなかった。餞別の品を送るわけでもないし、早く集まってお別れの会をするわけでもない。僕たちは非日常的な日常を、最期まで守り続ける。僕たちの関係はそうあるべきなのだろうから。
彼女が残した思いは、言葉は、物は、数えきれないほどたくさんあるのだろう。長い生の中で死の準備を続けていた老人とは違い、十七歳の少女にとって生への未練は簡単に断ち切れるものではない。もう芥生さんが取り乱すことはない。けれど、だからといって全く生への未練がなくなったというわけではないのだろうから。
しかし、それを残すことは彼女の哲学に反していた。だから僕は、今際の際に居ても慰めのような言葉を吐くことはなかった。いつものように、夜の静けさの中で僕はただ彼女を見送ろうとしている。何も語らずに、そうあることが当然の帰結だったのだとでも思うようにしながら。
「ねえ。私が飛び立っても哀しまないで欲しいって頼むことは、残酷かな」
「頼まれてもどうしようもないとしか言えないよ。哀しみは自分じゃどうしようもなく制御出来ないからこそ哀しみなんだろうから」
「言えてるかも。じゃあ君は、私が居なくなったことに哀しんでくれる?」
「未来のことは誰も分からないし、感情は証明することが出来ないよ」
彼女が月へと消えてしまえば、僕の中に感情が湧くことは確かだろう。それが喜びや怒りと呼ばれるものとは遠く、哀しみに限りなく近い何かであることは分かる。ただ、哀しみだと断定をすることは出来なかったし、したくなかった。未確定の感情をたった四音の型に流し込んでしまうことは、極めて危険な、ある種の禁忌のように思えるから。
「ありがとね」と芥生さんは言う。
「脈絡がおかしくないか? 哀しいとでも言うならともかく、僕は分からないなんて曖昧なことを言っただけだろ」
「おかしくないよ。白野君が哀しいって言うなんて、その方が不自然でしょ。そういう回りくどいような言い方をするのは白野君らしいなって思うし、変に改まれるより最期まで白野君らしく接してくれることが嬉しいんだから」
自分の今までの態度からして仕方のないことではあるけれど、寂しいと言うことが不自然に思われるとは、つくづく白野四季という人間が捻じくれて出来上がっていることが分かる。それでも、僕はこれから生きていく限り付き合っていくしかない捻じくれた自分が、案外嫌いではなくなっていた。好きだと言うことは出来ないけれど、悪い奴ではないんじゃないかと思う。そして、生きていくためにはそれくらいで十分なのだろう。無理に好きになる必要はない。愛する必要はない。ただ認めることが出来れば、それで良いのだ。
「私のことは忘れないでね」
「嫌でも思い出すさ。毎晩、夜空を見上げる度に」
それは確信を持って言うことが出来た。今でも、芥生さんと出会うようになってからも。やはり僕は月を見る度に鏡花のことを夢見るのだから。もう二度と会うことの出来ない、月世界へと到達した少女のことを。終わってしまった初恋のことを。
それは紛れもなく一種の呪いだ。去ってしまった者たちのことをいつまでも忘れることが出来ないということは、いつか僕の心を酷く痛めつけることになるだろう。しかし、呪いは祝福の別の表情に過ぎないのだ。それは僕を痛めつけるとともに、いつか僕を救ってくれる。そう、信じている。
「うん、君は私のことを忘れられないんだろうね。でも、言っておきたかったんだ。そうなってしまったからじゃなくて、私の言葉で私のことを覚えていて欲しかったから」
確かに、記憶から消えないことと記憶から消さないことには大きな乖離がある。とても、触れ合うことが出来ないほどに大きな乖離が。彼女が頼んだことで、流れのままに記憶をしているのではなく僕は彼女の頼みによって芥生結という少女を覚え続ける。ささやかな違いかもしれないけれど、それは仄かな温かみを僕の中に落とし込んでくれた。
「あ」と彼女が呟く。道端で猫と目が合ったような、小さな驚き。しかしそれは猫と目が合うような、日常の断片ではない。日常を終わらせる、死への飛翔の始まりを表していた。
芥生さんの足が地表から離れていく。身体は重力に逆らい、浮かぶ。芥生さんは僅かな一瞬の間に様々な感情をその顔に走らせる。その後で、そんなものは全て嘘だったように微笑みで包み込んで「さよなら」と言った。それ以上を語ってしまえば耐えられないというように短く。
芥生さんが離れていく。彼女は月へと近付いて行く。こうなることは、散々分かっていたはずだった。最初、僕は彼女が月へと行くことを前提として動いてすらいたはずだ。僕が月へと行くために、彼女が月へと行くことは仕方のないことなのだと、突き放して考えていたはずだ。それなのに、今更になって諦めがつかなかった。僕は彼女に死んで欲しくないのだ。
僕は手を伸ばす。彼女を引き留めるために。この世界に留めるために。腕を伸ばし、急進的に浮かんでいく彼女の手を掴む。それが不可能かどうかなんていうことには興味がなかった。ただ衝動的な行動だった。
手に柔らかな感触と夜にそぐわない温かさが走る。何が起こったのかを正確に理解するよりも先に、掴んだ先にあるものは強烈な力学を用いて僕の身体までも地表から引き揚げた。肩に体重分の負荷がかかる。それでも、一度掴んだそれを離さないように、僕は縋りつく。
顔を上げる。芥生さんは、目を丸くして僕のことを見つめていた。美しい顔が間抜けにすら見えるような、可笑しな表情だ。
「どうして――」
そんなこと、僕も知らない。昨日まで全く掴むことが出来なかったそれは、僕たちを嘲笑うようになってようやく掴むことが出来るようになっていた。何かしらの法則性が存在しているのか、単なる偶然なのか。今となってはどうでもいい。
僕は空いている左手を使って近くに伸びた木の枝を掴もうとする。何本か掴み損ねた後でようやく掴むことが出来た枝も、月へと誘う力には勝てず、折れて重力に従い落下していく。月へと行くことは、まるで運命として決まっているようにどうしても止めることが出来ない。これ以上体勢を崩してしまえば微かに繋がった右手さえも離してしまいそうで、これ以上足掻くことは出来そうにもなかった。
「駄目だよ! 早く離して!」
離せるはずがなかった。ようやく掴んだのだ。もう離すわけにはいかない。右腕が軋むような感覚がする。僕の身体は芥生さんの身体とは違い相変わらず重力に引き寄せられるままで、長い時間はその世界の法則に逆らえそうにない。
上しか見ることは叶わないままだけれど、自分が不可逆的なほど高い場所まで昇って行っていることが分かる。僕は月へと近付いているのだ。機械の力も借りずに、美しい月世界へと。
左手で右腕を掴む。何もしていなければ、このまま右手は力を失い落ちてしまいそうだった。既に感覚は失われつつあって、それでも離さないように、僕は意志だけで彼女にしがみつく。
「君は生きるんでしょ!? なんで、離れてくれないの! 約束は嘘だったの⁉」
「そんなわけないだろ!」
僕は生きなければならない。彼女の呪いに従って、死を背負いながら生き続けなければならない。その約束に嘘はなく、僕は既に呪いを背負っている。
月への飛翔にしがみついているこの姿は、約束を違えているように見えるのかもしれない。しかし、死にたいわけではない。僕は、月へと行きたいわけではない。
「僕は、芥生さんと生きたいんだよ! 君にも生きていて欲しいんだよ!」
願うことはたった、それだけなのだ。だから、手を伸ばした。手を掴んだ。僕は彼女に、生きて欲しかった。
けれど、この願いが最早どうしようもなく無意味なものであることは分かっていた。僕が掴んだところで、意味はない。魔力は彼女を月へと誘い続ける。上昇を続け、やがて人の至ることの出来ない地点まで到達していく。右手に走る無力感と痺れがそれを証明していた。
月光を背景に僕を見下ろす芥生さんは、今まで見せたことのないような表情をしている。喜びと哀しみをかき混ぜたような、冬の黎明のような色だ。
涙が彼女の頬を伝ったことに気が付いたのは、月光が彼女の顔を照らした時だった。どれほど死が迫っても、死の実感を覚えても見せなかった涙を彼女は曝け出している。
何度も口を開いて、そして閉じる。音にならないだけで、彼女の中では言葉が生み出され、殺されているのだ。彼女は彼女の感情を、殺戮していっている。そうしなければならないという責務のもとに。彼女のためではなく、僕たちの美しいさよならのために。
「ありがとう」と彼女は言った。そして、僕の手を振り払う。その力は極めて小さなものだったけれど、重力に後押しされるようにして僕の手は彼女の手から離れていき、身体は落下していく。
「私は君と――」
そう、彼女は言っていた。けれど、最早それ以上言葉を探ることは出来なかった。音が届くことはないままで、彼女が何かを告げている口元を見送りながら、僕は落下していく。地に堕ちていく。
重力のままに、空から離れていく。僕と芥生さんの距離は加速度的に乖離していき、もう手が届かないものなのだということを知る。
昔読んだ話を思い出した。詩人が酒に酔い、月へと手を伸ばした末に舟から落ちて溺死をした話を。それは、愚かさや滑稽さの象徴として語られることが多い。ただ、それは酩酊の末の奇行でも、芸術家らしい幻想的な破滅でもないのだと僕は思う。彼は、月を掴まなければならなかったのだ。それが例え遠く掴むことなど到底叶わず、掴み損ねれば死ぬのだとしても。本当に手が届くと思っていたのかは分からない。ただ、それは実際的な行為ではなく、祈りだったのだ。何の役にも立たない、けれど人間には必要な機構のひとつだったのだ。
僕は彼女の手を掴んだことを後悔していなかった。死ぬ気はない。僕は生きなければならないのだから。しかし、落下をした先に自分がどうなるのだとしても、これで良かったのだと思える。僕は、祈らなければならなかったのだ。月に。決して実現することはない理想に。
視界の中に夜空が広がっていく。満月と星々が広がるそこは、黒い海のようだった。遠のいていく彼女はまるで溺れるように吸い込まれていく。見えなくなっていく。胸の中に冷たい液体が流し込まれたような感覚が走った。これが、寂しさと呼ぶべきものなのか、虚しさと呼ぶべきものなのか、切なさと呼ぶべきものなのかは分からない。あるいは、未だ名前のつけられていない感情なのかもしれない。
「さようなら」と呟く。
さようなら、芥生さん。例え失うしかなかったのだとしても、僕は君と出会うことが出来て良かった。
遠く、最期に見えた彼女は笑っていたような気がした。表情なんて見ることが出来ないはずなのに、泣きながら笑っているように見えた。
そうして、僕自身もまた泣きながら笑っていた。
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