シャボン玉を掴んではならない

13

 今日も、月が綺麗だった。ついに半分以上満ちたそれは、いつもと変わらぬ表情でこの世界を見下ろしている。

 今更行って何になるのかと、何かが問いかけた。何にもならない、と僕は答える。彼女を救うことは出来ない。最早出来ることは、見送ることだけだ。それでも、このままでは何もかもが置き去りにされたままだから、僕は決着をつけなければならない。納得のいく終わりを迎えるために。

 ちりちりとした身を焦がすような熱が指先に走る。緊張が激しく僕の中でのたうち回っている。どれほど覚悟をしていても、誤魔化せないものは存在している。逃げることの出来ないものは存在している。例えば死のように。

 嵐にも似たそれを、僕は諦念という傘を使って凌ぎ続けてきた。風に逆らうように傘を持ちながら、何とか転ばないように、まともに進むことも出来ないままで。それもまた、ひとつのやり方ではあるのだろう。けれど、ずぶ濡れになってでも進まなければいけない時がある。傘を捨てて、豪雨に打たれながら前へと歩んでいかなければならない時が。

 身体を濡らす雨は痛いほどに冷たいだろう。視界が悪いせいで、本来行くべきだった場所にすら辿り着けないかもしれない。それでも、進まなければならないのだ。そうしなければ、嵐の中を抜けることが出来ないのだから。嵐の中を生きていくことは、あまりにも辛いことだから。

 僕は歩く。それは、世界に流されるままの漂流でもなく、諦念による惨めな亡霊の如き徘徊でもない。僕は僕の意志を以て、進み続けるのだ。その先にあるものが例えどれほど凄惨な結果なのだとしても。

 誰も居ない道を独りで進む。何も、なかった。昼間であれば鳴り響く蝉時雨も、纏わりつくような夏の暑さも、当然のことながら人影も、何も。足音が、呼吸が、いやに夜に響く。静寂は、僕という人間を縁取り、その存在を証明しているように思えた。

 山へと這入り、階段を上っていく。芥生さんや鏡花の姿を思い出した。月光は、雲の切れ間から差し込む陽光のように夜闇を切り裂いて、彼女たちを照らす。そうして天へと架けられた梯子を、彼女たちは昇っていく。どうして、人は脆さや果敢なさに対して美しさを見出してしまうのだろうか。どうして、悲劇を魅力的だと感じてしまうのだろうか。理性がどれほど否定をしても感じてしまう感動が、嫌だった。

 頂上へと辿り着く。木々がなくなり、開けたそこはまるで舞台のようだった。月光というスポットライトに照らされ、悲劇の主役は静かにそこに佇んでいる。哀しみを携えたまま、たった独りで。

「芥生さん」と声をかける。その声は風すらも凪いだ夜に反響する。彼女は、振り返って僕の顔を見る。

「白野君」と彼女は笑った。まるで、数日間の空白なんて存在しないように。僕の残酷な言葉も、彼女の弱さも、なかったものにするように。

 彼女は日常を、今までの関係を守ろうとしている。教室で見せるような、作為的な表情を浮かべている。その事実が、痛かった。夜でさえも、彼女が本心すらも曝け出せたこの場所でさえも、無理をさせている。僕は、彼女がありのままで居られる場所を殺したのだ。月行病という秘密を零した信頼までも裏切って。

 息を吸う。夏の夜風が冷たく、肺が軋む音がした。情けないけれど、未だに告げることに抵抗感がある。他のあらゆるルールを破っても、誠実を売り払ってでも守り続けた僕の唯一の信念だったから。それを破ることは、今の僕を殺すことだ。誰だって、痛みは嫌いだ。それが例え形而上的な、修辞法的な自殺だったとしても、好んで行いたいという者は居ない。

 それでも、人はそうして、自分を殺して生きていくのだ。悲劇ではない。喜劇でも、奇蹟でもない。明日も朝日が昇るような、当たり前の世界の循環としてそれは存在している。だから、僕は。

「君に、伝えなきゃいけないことがあるんだ。ずっと隠し続けていた、僕の秘密についての話を」

 芥生さんは僕の言葉を聞いて、普段の韜晦めいた表情から夜に見せる個人的な表情へと切り替える。彼女はまだ、僕を信頼してくれているのだ。誤魔化すようなことなく、記号的なクラスメイトではない白野四季として僕を見てくれているのだ。だからこそ、もう裏切りたくない。

 世界に対する秘密を持っておきなさいと、母は言った。それが、僕を救うことになるのだと。その言葉は正しい。誰にも侵されない何かを大切に抱え、それを中心にして生きていくことは、迷宮のように複雑で嵐のように苛烈な世界の中でも自分を見失わずに済む指標となる。だからこそ、僕は秘密を抱え続けながら生きていた。

 最も上手く秘密を隠す方法は、本当に隠したいことを覆い隠すもうひとつの秘密を持っておくことだ。僕にとってそれは、何も言わずに居なくなってしまった人との思い出だった。彼女との過去が秘密ではないと言いたいわけではない。ただ、それよりもより個人的で、誰にも侵されることのない秘密を僕は自らの心の最奥に隠し続けていた。信頼を裏切ってでも、生きていくために、目的を果たすために。

 けれど、言わなければならない。もう逃げることは出来ない。その破壊行為は僕を殺し、彼女までも傷付けることになるのかもしれない。それでも。

「僕は」と言って、声が詰まる。それからもう一度息を吸って、芥生さんの眼を見て、秘密を吐き出す。

「僕は、最初から君を救うつもりなんてなかった。君を利用して月へと行こうとしていたんだ」

 何かが、言葉とともに身体の内から零れだしている感覚がする。傷口から血が流れだすように、生命のようなものが失われていく。その痛みは、罰なんて大層なものではない。僕が目を逸らし続けていただけで、生きていれば誰もが覚えるものなのだろう。

 立ち止まってしまえば、もう進めないことは分かっているから、僕は言葉を続ける。それが正しく美しい、人に聞かせるべき言葉かは分からないままで、感情のままに吐き出し続ける。

「君に触れたいというのは本当だ。でも、それは君を引き留めるためじゃない。君の病を使って僕もまた、月へと行こうとしていたんだよ」

 月行病でない人間が浮かぶことは出来ない。月へと行くことは出来ない。僕はずっと、月へと行くことを望んでいた。けれど、月行病はなりたいと思って罹ることの出来る病ではない。どうすれば月行病になることが出来るのかと調べても、答えは見つからないままだった。

 そんな中で、芥生さんと出会った。運命だと思った。もう一度、あの人に触れたように彼女に触れることが出来れば、彼女に掴まることが出来れば、月へと行けるかもしれない。僕もまた、あの場所へと向かうことが出来るかもしれない。そう願い、僕は彼女に頼んだのだ。彼女を引き留めるという嘘を使って、触れることが出来る機会を見つけるために。

「君が月へと行きたいと思ったのは、以前君と一緒に居た子が自分を置いて月へと行ったから?」

「……ああ」

 彼女は月へと行った。母も月へと行った。芥生さんが死と恐れるその場所は、僕にとっては美しく素晴らしい、行かなければいけない場所だった。

 あるいは、来栖さんが言ったように、月には魔力のようなものがあり、人を惹きつけるのかもしれない。その果てとして、空想めいた現象を研究し続けた彼のように。けれど、それが失われた者に対する執着であっても、月が与えた狂気であったとしても、僕はその衝動を止めることが出来なかった。月へ至ることを渇望した。

 月を拒絶する彼女を否定するような、今までの行動の全てが嘘だったと明かすような言葉を吐いても芥生さんの表情は変わらなかった。怒りも当惑も浮かべることなく、彼女はただ静かに白野四季という人間と向き合い続けている。

「君はまだ、月へと行きたいの?」

「行きたいというよりも、行かなきゃならないんだよ」

 月へと到達することは、僕にとって責務のようなものだった。それが、救うことの出来なかった彼女に対する償いのように思えるから。そう思わなければ、過去を否定するように思えるから。

「なら、駄目だよ」と芥生さんは言う。短く、僕の責務を断罪する。

「君がしたいと思ったことを否定する権利は、私にはない。月へと行くことも、死ぬことも、私にはそうしようと思う気持ちが理解出来ないけど、好きにすればいいと思う。でも、君自身の意志じゃない、そうした方がいいからなんていう理由なら私は否定するよ。死ぬことは、そんな曖昧な理由で選んでいいものじゃない」

 死へと近付きつつある彼女の語る死は僕が否定することの出来ない確かな質量を持っていた。僕が捨てようとしているものは、彼女が欲し、手に入れることの出来なかったものなのだから。

 決意ではなく責務として抱いている以上、彼女の否定を退けることが出来るほどの強度はなかった。僕だってこの呪いのような衝動が間違っていることは既に分かっている。それでも、否定をされただけで諦めることが出来るような簡単な問題ではなかった。正しさや損得という単純な物差しで語ることの出来るようなものでは、なくなってしまっていた。

「なら、僕はどうすればいいんだよ。この世界には、もう誰も居ない。そんな中で、どうやって生きていけばいいんだよ」

 ずっと独りだったなら良かった。そうすれば、何も知らないままで済んだ。それなのに、彼女は僕に温もりを与えて去った。孤独の冷たさを知ることになった。

 ここは、独りで居るにはあまりにも冷たい。希望もなく生きていくには、あまりにも苦しい。

「生きている意味は、生きている中で見出される。君が教えてくれたことでしょ」

「生きていくことが辛いなら、どうしようもないんだよ。今を見ることが出来ないなら、そんなものはいつまでも見出すことなんて出来ないままだ」

 寄り掛かれる者も、信念すらもないままで一人世界と戦い続けることが出来るほど、人間は強くない。ただ痛みに耐えるためだけに生きていくくらいならば、死んだ方がましだ。

 僕が月行病に罹れば良かったのだと、何度も思っている。今の言葉が生を渇望する芥生さんを侮辱するようなものであることは分かっていた。それでももう嘘を吐き続けることは出来なかった。

 彼女はそんな僕の言葉に対して、拒絶や侮蔑をすることもなく、真っすぐに向き合う。月の光に照らされる彼女の視線は、耐え難いほど痛く僕を見据えている。

 その姿はどうしようもなく、眩しかった。

「……私は、君の痛みを知らない。分からない。ただぼんやり辛いってことだけが分かるだけだから、偉そうに語る資格はないのかもしれない。でも、思うんだ。その辛さは、痛みは、君が大切にしてたものだから、否定するべきじゃないんだって。その傷も含めて君なんだから。過去は、否認するものでも美化するものでもないんだよ。ただ認めて、背負って生きていくものなんだ」

 傷も含めて、自分。認めたくないことだった。けれど、認めざるを得ないことだった。母の言葉は、いつか恋した人と過ごした時間は、痛みを伴うものであると同時に僕にとってかけがえのない、僕と不可分的なものであるということは嫌というほど分かっていたから。

 失ってしまったものは取り戻すことが出来ない。他の何かでその穴を埋めることが出来たとしても、失われてしまったという事実には変わりがない。だから、その事実から目を逸らさずにそれでも生き続けることが残されてしまった人間の責務なのかもしれない。失ってしまったものを大切に想うのならば、尚更に。

 今まで僕を構成し続けていた鬱屈は、間違っているものだと分かってもそう簡単に改善することの出来そうなものではなかった。逡巡の中で、芥生さんは優しく笑って僕の手を取った。夜に中てられて冷たくなったその温度は、しかし人間の温もりを僕に与える。

「それでも生きる気がないなら、私が呪いをかけてあげる」

「呪い?」

「うん。君は、私が生きることの出来なかった分まで生きて。幸福になって。最後まで諦めずに、みっともなくても良いから、私が望んでも届かなかったものを受け入れて」

 それは、確かに呪いだった。断ることなんて出来ない、最大級の呪いだ。

 どれほど辛くても、苦しくても、僕は生きなければいけない。死へと逃れることも、そう希うことも許されない。どれほど強く望んでも生から引き剥がされるしかなかった彼女から、託されてしまったのだから。

 芥生さんの身体が浮かんでいく。触れていた手は透過して、離れていく。今日はまだ、死が訪れるその日ではない。しかし、耳を澄ませば死が近付いて来る音が聞こえそうな気がした。それほどまでに、月へと近付いて行く彼女は死へと接近していた。

「芥生さん。ひとつお願いをしてもいいかな」

 浮かびゆく彼女を見上げながら、叫ぶようにして言う。

「何?」

「僕に出来ることは、もうない。それでも、最期まで傍に居させてくれないか。君が月へと行く姿を見届けさせてくれないか」

 芥生結が月へと飛翔していくことを知っている者は僕のほかに誰も居ない。彼女が望んだ通り、多くの人は彼女を確定的な死の中に認識するのではなく、不確定的な失踪の中に認識するのだろう。けれど、誰も本当の彼女を知らずに、やがて世界から彼女の最期についての痕跡が全く消えてしまうことはひどく寂しいことのように思えた。例えそれが醜悪な悲劇であったとしても、なかったことのようにはしたくなかった。

 再び止めることも出来ないままで人が月へと飛び立っていく姿を見送ることは、僕の心をまた傷付けるかもしれない。ならば、僕はその痛みも、哀しみも背負って生きていく。それが辛いことだとしても、呪いのせいで僕は生き続ける。今まで希っていた願望を捨てて、意義も目的もなかったとしても。

 彼女は小さく頷いて「ありがとう」と呟いた。僕の無力さが、少しだけ報われたような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る