よるの傍観者

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よるの傍観者

旅先での夜というのは、どうにも眠るのが惜しいときがある。

クリーニングされてふっくらとした掛け布団にくるまりたい気持ちも十分あるのだが、なにぶん私は知らない街というのも夜というのも好きだから、目蓋を閉じることがもったいなく感じてしまうのだ。

ベランダがある部屋のときは、だいたい寝る前にベランダに出て、イヤホンをつけて好きな曲を聴く。それでもって身を少しだけ乗り出して、下の景色を見てみる。木々が生い茂っているのもいいけれど、私は深夜の道路を行き来する車の流れを見るのが好き。世界が回っていることを、ちょっとだけ俯瞰して見ているような気がするから。


あの車はどこに行くのだろう、あのトラックはどこへ荷物を届けに行くのだろう、そうやってぼんやり車たちの行き先を考える瞬間が好きだ。私は地理に疎いので、この道路が何号線だとか、どことどこの県に跨っているかとか、そういうのはちっともわからない。でも、ちょっとでもそれらを知っていたらもっと鮮明に車の行き先のことを考えられるだろうから、道のことを知りたいなと思う。


真下の道路から視線を少し遠くにやると、そこには灯りが灯っている。ビルとかマンションの一室一室に光が宿っていて、それはとてもロマンティックだ。だって、その光の一つ一つに物語があるから。その部屋の主は今起きているのか。いや、もしかしたら明かりをつけたまま寝る人なのかもしれない。明かりがついていないビルの一室はきっともう無人で、静かだ。マンションのあの暗い部屋ではきっと人が眠っている。それとも、どこかに旅行に行っていて、部屋を空けているのかも。私が旅行でここに来ているように、あの部屋の住人もどこか遠い地に泊まっていたりして。


数年前までの私は、自分の世界が全てだった。嬉しい、苦しい、悲しい。主観で見えているものたちが「私の世界」で、逃げ場なんて眠ることか死ぬことしかなかった。でも、ゆっくり時間をかけて、世界が思っていたより広いことに気づいた。

横にも後ろにも、世界が続いていた。それを認識してからとても気持ちが楽になったし、拍子抜けしてしまった。ああ、なんだ。大したことないんだねって。


それから、私はもっと夜の街の光を眺めるのが好きになった。光の数だけ物語がある。人生がある。テレビで人口何億人なんて言われてもピンと来ないけど、人混みの中を歩いていても先に進むのに精一杯で他の人なんて気にしていられないけど、ちょっと高いところから街を眺めるときだけは、「これが人の数かあ」なんてしんみり思えるようになった。そして、それは人そのものを見るよりも、車とか、光とか、「人」を間接的に表すものを見るときのほうが楽しい。


ベランダで数分そんな感傷に浸ってから、そろそろ寝ようと思って部屋に戻る。ほんとはずっと見ていたい。朝が顔を出し始めるくらいまで、ずっと。それでも、これだけの人生が目の前にあるように、私にも私の人生がある。そのうちの明日をちゃんと迎えるためには寝ないといけない。そう思って、部屋に入って窓越しにもう一度外を見て、惜しいなあなんて考えて、カーテンを閉める。舞台の幕を閉じるのに似ている。


待つ、というのが苦手な方だ。

待てるけど、時間の潰し方がわからないから。

でも、もし「ここ」で待たされるとしたら、私は結構穏やかに待てるだろうなと思う。

夜が明けるまで待てるし、待っていた人が来たら、その人と一緒に数分だけ、また街を見たい。

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よるの傍観者 ra @00oo00

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