春の嵐の中で
12
屋上へと続くドアの持ち手を握るとそこが開いていることが分かった。心臓がどくどくとその鼓動を早めたことを実感する。
息を吸って、吐いた。身体の中から感情が食い破りそうなほどに暴れて、頭がおかしくなりそうなほどにがんがんと衝動が脳内をのたうつ。いっそ、いつまでもこうしていたかった。停滞は上昇をもたらさない代わりに墜落ももたらさない。ここで踏み込むことを諦めればこれ以上落ちていくことだけは避けることが出来る。
けれど、その先延ばしに意味がないことはもう分かっている。僕は今と向き合わなければいけないのだ。持ち手を捻りドアを開けると視界が一気に広がる。
愁いを孕んだ春風が頬を撫でた。一瞬白んだ視覚が正常に戻ると、春の宵闇に紛れてフェンスに寄りかかりながら煙草を吸っている後ろ姿が見えた。僕は少し歩み寄って、唾を飲んで、口を開く。
「香深」
その声に弾かれたように香深は振り向いた。煙草を地面に落とし、よじ登ろうとフェンスを掴む。
僕から逃れるために飛び降り、死ぬ。最悪ではあったけれど、想定していない最悪ではない。香深は僕がこの場に来ることすら想定が出来ていなくて、僕は彼女が現れた時のことを想定し、何度もシミュレートした。その差は明確に結果として表れる。
香深がフェンスを跨ぐすんでのところで僕は彼女の腕を掴み、強引に彼女を屋上へと引き戻した。しっかりと受け止める余裕などなく、香深が僕の上に倒れ込むようなかたちになりいつかの夜を幻視する。あの時も、同じような状況になったものだ。
僕の上に重なったという状況を理解した後、香深は哀切と憎悪をないまぜにしたような目を僕に向け、逃げようとする。だから僕は再びしっかりと離さないように彼女の腕を握った。今香深を逃がしてしまえば、例え永遠の時間があったとしてももう会うことが出来ない予感がして痕が残るかもしれないくらい強く掴む。
「離して!」
「嫌だ!」
「離してよ!」
「離さねえよ!」
香深は思い切り暴れる。躊躇なく暴れる人間を抑え込むことはかなり難しい。それも自らの上に乗っている人間であれば尚更。それでも、僕が手を離すことなく彼女を掴み続けていることが出来たのは単純な性別の差でもあり、執念にも似た感情のお陰だと思う。もうずっと探し続けてきた相手が目の前に居るのだ。ここで手を離す奴が居るか。
ばたばたとのたうつように暴れた後で、香深は糸を切られた人形のようにくたりとその四肢を屋上の床に投げ出した。それは白旗を揚げたり両手を挙げるような一種の降伏の宣言で、念のため注意を張りつめさせたままにしながらも腕を掴む力を緩める。
「……上から退いて。もう落ちないし逃げないから」
その言葉を信じるべきか。逡巡の後、僕は彼女の上から退くことにした。これはその場凌ぎの嘘で、もしかしたらこの後再び身を投げようとしたり、逃げようとするかもしれない。それでも、今は彼女を信じたかった。嘘を吐いてまで僕から逃れようとするほど、あの時の僕たちの関係は脆弱で、そして破壊されつくしたものだとは考えたくなかった。
僕が上から退くと香深は疲れ切ったようなため息を漏らして座り込む。僕の方は見ないまま地面を見つめ続ける瞳は倦怠と戸惑いが入り混じった色をしていた。
「それで、今更何の用?」
嘲るように、吐き捨てるように、香深は呟く。覚悟はしていたけれど、彼女のその危うい鋭さを持った言葉を突き付けられると心がズタズタに引き裂かれたような感覚がした。拒絶をしたことに対する罪の意識は嫌というほど僕の頭の中に響き続けていたけれど、所詮それは僕の出来る想像の範疇に収まる痛みに過ぎなくて、実際にその痛みを吐き出す香深を目の前にするとその痛みは今までの自罰を超える痛みを持って僕の心に深く突き刺さる。
「……慰めならいらない。自己満足のために来たのであれば帰って。もう、君に出来ることはないんだよ」
それは僕に対する宣告であり、改めて僕と彼女の間に一線を引く宣言だった。彼女の口からそこまではっきりとした拒絶の言葉が吐き出されるのは初めてで、打ちのめされそうのなる。彼女の言う通り僕に出来ることは既になくて、互いのために何も言わずにこの場を立ち去るのが正解なのかもしれないという考えが頭を過ぎる。
けれど、それでは駄目なのだ。僕に必要なのは理屈を捏ねくり回して独りよがりな満足をすることではなく、例えそれに意味がなかったとしても血の通った、あるいは血塗れの生きた行動へと踏み出すことなのだ。
僕は彼女と向き合うような場所に座り、努めてあの時、くだらない話をしていたような声色で口を開く。
「何十回だろうな、君を探したのは。かなりかかったよ、見つけ出すのには」
香深は僕の言葉に反応をすることなく微かに俯く。逃げないのであれば、それでいい。反応はなくても、きっと彼女に僕の言葉は届いているのだから、今はそれで十分だ。
「高校生っていう身分は不自由も多いが大人よりも足跡と言われるようなものが残りにくい。素人の足じゃ当然見つからなかったし、興信所みたいなところにも何度か頼んでみたけど大抵は僕自身が高校生という理由で突き返されるかなしの礫といったところだったよ。どこかのスパイでも出来るんじゃないか?」
彼女を探し続けた繰り返しを回顧する。本当に、霞を掴むような作業だった。証拠らしい証拠はまるで見つからず、持てる手段が徐々に潰されていき時間だけが浪費されていく。思いついた片端からぶつかっていくという不器用なやり方は僕の後悔を探すために香深と行ったやり方に似ていて、どこか懐かしさを覚えたこともあった。
「……偶然なんだよ、こうして会うことが出来たのは」
小さくため息を吐いて緊張と安堵を吐き出す。そう、偶然。綿密な調査の末に彼女の居場所を割り出したというようなロジカルな必然ではなく、天運に恵まれた単なる偶然。繰り返しに巻き込まれるくらいなのだ、これくらいの偶然はあっても罰は当たらないだろう。
「いつかは分からないけれど、君はここを訪れるだろうと思っていたんだ。根拠は何もなかったけど、だからずっとここを見張っていた」
香深が訪れるかもしれないと予測の出来る場所で、人目につかず、そして少なからず思い出の存在する場所。それだけの根拠とも言えない断片から推測したこの場所が、結果としては正解だったというわけだ。
あの夏を思い出して僕は屋上を見渡すけれど、屋上には香深が残したビールの痕は既に残っていなかった。当たり前のことだ。当たり前のことだと分かっているけれど、寂しさを感じないと言えば嘘になる。
「勿論、ずっとと言っても四六時中というわけではないし、そろそろ辞めようかとも考えていた。もしここに来るタイミングが少しずれていれば会えなかったんだろうと思う」
そして、その会うことが出来ないは永遠に、という枕詞がつくようなものだったのだろう。だからこそまだ何も始まっていなくて気を抜くわけにはいかないけれど、気丈を装いつつも安堵したのは確かだった。
この偶然は奇跡だったけれど、その奇跡に対する認識はきっと僕と香深で全く違うものになっているのだろう。その差異について改めて考えると決まって言い表すことの出来ない寂寥が毒ガスのように身体の中に満ちていった。取り返そうとしているとしても、失った事実に変わりはない。その事実を噛み締めながら、僕は進むしかないのだ。
「……香深を探している間に、ずっと青春とは何かについて考えていた」
僕が慰めを零すでも独りよがりな偽善を吐くでもなく青春について語ろうとしていることは香深にとっては予想のしていなかったことのようで、伏し目がちだった目が僕の方を向いて一瞬だけ視線が交差した。
「君の後悔は青春を経験したかった、というものでそれは星に手を伸ばす行為に近く、達成することが出来ないものだと、そう言っていた」
「……それは、事実でしょ」
屋上を訪れて、初めて彼女が僕の言葉に応じるように言葉を紡いだ。今までの足跡を確認するようにゆっくりと、しかし何よりも強く確かな口調で。
「理想は実現した途端に色褪せてありふれた現実へと変わっていく。いつまでもキリのない、不毛な追いかけっこ。蓮見君には何度も説明したはずだけど」
「ああ、何度も説明をされた。確かに、理想というものを語るにおいてその言葉はこれ以上なく正しいんだろう。近づいたと思えば離れていく、ジレンマ上にしか存在出来ない概念」
「分かってるなら、何が言いたいの。考えたって無駄だって、分かるでしょ。考えて何になったって言うの」
「そうは言っても、君は何も考えてこなかっただろ。青春について」
「――っ!」
その一言は香深の表情を途端に醜く歪める。それはそうだ、彼女は僕よりもずっと長い間自らの後悔に、青春というものに向き合い続けていた。幾ら長い時間を共に過ごしたからといって、訳知り顔で今までの自分を否定されれば激昂するのは自然な感情だ。
「何もっ、何も知らないで!」
「そうだな、僕は何も知らない。ただ、もしも君がまだ青春を理想的な何かだと思い込んでいるのであれば考えてこなかったんだろうということは分かる。君は確かに青春と向かい合ってきた。ただ、それは考えてきたのとは別の側面に過ぎない」
世界が破裂したような音が響いて、視界が揺らぎ、熱が頬を走った。頬を叩かれたと理解するのにそれほどの時間は必要なかった。
痛くない、なんて強がることは出来ない。ただ、ここで意志を挫いてはいけない。これくらいの痛みは、彼女の心を踏み躙るうえであるべき痛みだ。僕は出来る限り変わらない口調のまま、淡々と言葉を続ける。香深の目を覗き込みながら、叩かれても罵られてもそれでも進むという意志を握りしめながら。
「君は――というより僕も、青春という言葉に囚われ過ぎているんだよ。誰もが理解をしているからこそ青春という漠然とした概念に依拠し過ぎている。もう一度、よく考えろよ。君は本当に青春とは何かを考えたことがあるのか? 自分には触れることの出来ないものを、変えられない過去を、都合よく偶像化して押し込むための場所になっていないか?」
「それは――」
叩かれても怯まない僕に対してか、それとも本質に近い部分を掠めた僕の言葉に対してかは分からないけれど、香深は言葉を詰まらせる。
何から何までが真実だなんて都合のいい解釈はしない。永遠にも近い時間を彼女は繰り返してきたのだ、きっと青春というものについて考えたことはあっただろう。けれど、少なくとも今の様子を見る限り現在においては諦念のままそれを放棄しているはずで、全く的外れな言葉を言っているとも思えない。その微かな重なりがあれば、それで十分だ。
「青春とは何か。僕たちはまずその最初の問いに振り返るべきだったんだ。語ることすら出来ない虚像に対しての批判を繰り返すんじゃなくて、かたちのある実像に向き合うべきで、だからこそその曖昧だったものをかたちにしないといけないんだ」
目を逸らして、届くはずがないのだという諦念は簡単だけれども、その中に納まっていてはどうすることも出来ないのだ。青春は、決して彼方に輝く遠い観念ではない。手の届く、僕たちの生に隣接した日常であるはずだ。だからこそ、世界を知るために世界を記述するように、僕たちは青春についてより細かく、深く考えなければならない。そうでなければ、理解をすることが出来ない。
「……青春という言葉は一種の呪いなんだろうな。いや、青春という言葉が人間によって呪われたというべきなのか。僕たちは手に入れられなかったものを希うあまりその後悔を青春という言葉に押し付け過ぎたんだと思う」
それを虚構として愛するのであればいいのだろう。フィクションだと割り切って受け止めることが出来たならば、それで良かったのだ。しかし、その虚構が現実の延長線にあるものだからこそ、人は虚構と現実を混同して考えるようになる。もしかしたら、自分もこんな時間を過ごせたかもしれないという後悔を引き摺り始める。
そうして僕たちは虚構を見つめるがあまりに、現実を見落とすことになったのだろう。大切な何かを、見失うことになったのだ。
「だから、言葉の上でのものではなくて、今目の前にある青春の話をすべきなんだ。理想ではなくて、現実の青春について考えるべきなんだ。そうしなければ、元より前に進めるはずなんてないんだよ」
存在のしないものではなくて、存在のするものを追い求める。何にしても、話はそこから始めるべきなのだ。砂上には陽炎のように不安定なものの他に何も積み上がらない。
香深は物言わずに僕の方を見て話を聞いている。肯定的なのか、否定的なのかすら分からない。
僕自身でさえ、正しいことを言えているのかは分からない。僕が必死に吐き出しているものは、孤独に中てられて滅茶苦茶に積み上がった、理屈とも言えないグロテスクな何かなのかもしれない。それでも、これが何度も考えて出した言葉だから、言うしかないのだ。
「今目の前にある青春に、理想とか決まった形なんていうものはない。それは誰もが過ぎ去るある一定の特殊な期間のことを指す概念に過ぎなくて、その形は人によって異なるんだろう。理想的な恋人と付き合った甘い時間のことかもしれないし、ひたすらに孤独を育んだ薄暗い時間のことかもしれない。屋上に忍び込んで花火をやることかもしれないし、学校をサボって旅行に行くことかもしれない。思い返す度に勇気づけられる輝かしい過去かもしれないし、思い返す度に自己嫌悪に苛まれる消したくなるような過去かもしれない」
青春という言葉は理想化され、常として肯定的なものとして用いられる。しかし、それが違うのだろう。本当の青春というものは、もっとどす黒く歪んでいて目も当てられないような、そういうもののことを言うのだから。
「青春はただ、そこに存在しているものなんだよ。そこに善とか悪とか肯定とか否定みたいな価値観を見出すのは人間であって、自分は経験することが出来なかったと言うのは違う。自分の過ごしてきた時間を否定するのは、自分を殺しているようなものだろ」
過去を恨むのはいい。くだらないと謗るのはいい。思い出したくもないと吐き捨てるのはいい。ただ、なかったことにするのは自分を否認するようなものだ。誰だって自己嫌悪に苛まれる時がある。自分を否定することがある。それでも、自分という存在を認めないのは決定的な綻びをその人の中に作ることになる。
僕たちは僕たちの青春を認めるべきなのだ。それがいかに醜いものであったとしても、暗い最低なものであったとしても。あるものを、あったものを存在しないものだと否認せずに受け入れるべきなのだ。そうして生きていくしか、ないのだ。
「僕たちは今も、青春のただ中に居る。それが、答えだろ」
青春をどう見つけるかが問題なのではない。青春をどう認めるかが、問題だったのだろう。
意識の向く先を少し変える。それだけのことが、人間にとってどれほど難しいものかということを、僕は知っている。それは革命なのだ。歴史の教科書に載るような革命とは違う、誰にも知られない個人的な革命。
人は人に影響を与えることもできず、また、人から影響を受けることもできない。誰かの行動を捻じ曲げることが出来るなんていう考えは傲慢だ。だから、少しでもいい。僕の独りよがりな考えが全く伝わらなかったとしても、少しでも香深の意識の行く先を変えるきっかけになったのあれば。僕が救うことが出来なくても、香深が自分自身で救われるきっかけになれたなら。
「……それは、諦観のベクトルが私のそれと少しだけ変わっただけじゃないの?」
「かもしれない」と言って僕は薄く笑う。
そうだ。受け入れると言えば聞こえはいいけれど、これは思考放棄であり諦めだ。青春を追い求め続けた香深からすれば現状に甘えて都合のいい言葉を並べて、逃げ道を作りだしているようにしか見えないのだろう。
何度も自覚している通り、僕の言葉に整然とした論理は存在しない。お前の言っていることは間違っていると言われてしまえばそれで終わってしまうような、脆弱なスタンスのひとつに過ぎない。これ以上、僕の口から彼女を説得できる有効的な言葉を羅列することは出来ないだろう。
ただ、それでも。
「それでも、同じ場所に留まり続ける諦観と前に進むための諦観であるとすれば、僕は君に後者を取って欲しい。諦めることは悪いことじゃなくて、諦めた先でまた歩き出すことが出来たらそれで良いと思うから」
嵐に立ち向かい、奇妙な動きをしながらもその場に踏み留まり続けることは賞賛されるべき行為なんだろう。けれど、横道があるならそこへと逸れて、風を凌げる道を進んでいくこともひとつの歩み方なのだと思う。進み続ければいずれどこかへ辿り着くことが出来るのだから。
「それに、僕は香深と行き詰っていたことがとても楽しかったんだ。本来あるべきではない時間だった。あらゆる青春と呼ばれるものと比べれば歪んだものだった。ただ、それでも僕はあの日々を青春だと言いたいんだよ。かけがえのない、特別な春だったと肯定したいんだよ」
ある時は理想の青春をなぞり、ある時は年相応に社会規範に抵抗して、ある時は何をすることもなくただ命を浪費するように時間を過ごした。どこまでも歪で滅茶苦茶なあの日々を青春だと肯定する人は居ないのかもしれないけれど、僕は青春だと思っていて、香深にもそうだと思っていて欲しかった。同じ時間を、同じように理解して、同じように大切なものだと心の中に仕舞っていて欲しかった。
散々言葉を捏ねくり回しておいて、僕が言いたかったのは結局これだけのことだったのかもしれない。青春じゃないと切り捨てないで、僕たちが過ごした時間を肯定して欲しかった。香深に繰り返しから抜け出して欲しいとか、後悔というしがらみを捨てて進み始めて欲しいとか、そんな言葉はお飾りのお為ごかしに過ぎなくて、僕は彼女と世界を共有してかっただけなのかもしれない。
祈りにも似た、どこまでもエゴイスティックな感情を吐き出し切って、僕は物言わずに香深を見つめる。既に僕に出来ることはなくて、ただ静かに彼女の言葉を待っていた。
再び拒絶されることは辛い。想定をして身構えていたとしても、その痛みに耐えることが出来るわけはなくて、考えただけでも頭の中が真っ黒に塗りつぶされたような錯覚に陥る。それでも、僕は言わなければいけなかった。再び香深に出会わなければいけなかった。本当の別れには痛みがつきもので、曖昧に誤魔化したようなあの別れで僕たちの関係を有耶無耶にしたくなかったから。別れるとしても、納得のいく別れ方をしたかったから。
香深は僕から目を逸らす。その目は夜の藍色のような静けさを感じさせた。
「ただ目の前にあるものを認めるなんて、簡単に聞こえるけど難しいよ。少なくとも私にとって、世界はやっぱり理不尽で、不条理で、最低な場所だから」
それを否定することは出来ない。僕自身もまた、世界に対してそう思ってしまうのだから。人間は世界を認識の下でしか見ることが出来ない。そしてそれは無意識的なものであり、どう考えたとしても制御をすることなど出来やしない。だからこそ、人は勝手に世界を狭め、自ら作り出した牢獄に囚われることになるのだから。
無理かもしれないということは分かっていた。ただ、僕に出来ることを全て行って、それでも何も残らないのだという現実が突き付けられると大きな空白が僕の中を支配する。
でも、と香深は言葉を継いだ。零れ落ちてしまったものを掬い上げるように。僕は面を上げて彼女の次の言葉を待つ。
「その言い方は狡いよ。私は、蓮見君と過ごした時間を否定したくない。あの時間こそが、私の過ごしてきた中で最も大切で、輝いていたものだったんだから。それを否定することなんて出来ない」
祈るように、彼女は空を見上げる。手を伸ばせば、あるいは届きそうな世界の限界は、どこまでも、どこまでも続いているような気がした。
「私の青春も、確かにあったんだ。良いものだったとか、悪いものだったとか、それ以前に、私は私の過ごしてきた時間を認めてあげるべきだったんだ」
そう言った香深は僕の目を見て笑った。
青い鳥のように初めから彼女の元にあった結論を見て、冗長な彷徨だったと言う人もいるかもしれない。今までの道のりは無駄だったのかと思われるかもしれない。
確かに僕たちは遠回りをし過ぎた。けれど、その遠回りは必要だったのだ。例えば芸術のように、世界には時折必要な無駄というものが存在して、きっとこうすることでしか僕たちはここへと辿り着くことが出来なかったのだと思う。非生産的で非効率的で不毛な、それこそが僕たちの青春だったのだから。あるいは、青春なんていうものは往々にしてそのようなものなのかもしれない。
受け入れてくれたことに対する安堵で身体の力が少しだけ抜ける。それと殆ど同時に、不意に香深の表情が曇った。そしてどうしたんだ、という言葉をかけるよりも先に彼女の中の不安が決壊した。
「ちっ、違う! 駄目だよ! 嫌だっ!」
まるで先の安寧が嵐の前の静けさだったように、香深は取り乱す。それは喪失に気がついた時の痛みのような、切実な声だった。
「後悔が、消えていく。繰り返しから抜け出すことになる」
繰り返しから抜け出す。それは僕たち繰り返し続ける人間からすれば悲願であるもののはずなのに、香深は苦しそうな声で、今にもぼろぼろと魂が崩れ落ちていきそうな表情をしている。
香深はそっと僕の方へと寄って、他人と自己の境界線上に立つように、決して僕自身に深入りしないように、優しく僕の背に腕を回してしなだれ掛かった。柔らかい香りがする。いつかの夏に屋上で、いつかの冬にベッドの上で嗅いだ時と変わらない、彼女の香りが。
「忘れようとする度に刺されるような痛みとともに自分の中でどうしようもなく自覚したの。私は君のことが好きなんだって。離れたくないんだって」
掴むべきなのか、触れるべきではないのか、考えあぐねたような力で香深の腕の感触がする。
「私は、君と離れるくらいならずっと繰り返していたかった! ここから出たくなんてなかった!」
僕の身体には触れないように、シャツが強く握られたことが分かった。それは風に吹かれれば崩れてしまいそうなあまりにも脆い祈りで、だから僕は取り零さないように強く、彼女を抱き返す。
香深の肩が小さく跳ねた。あの夜触れることの出来なかった体温が身体に触れて、僕の体温と溶けて混ざり合っていく。
「……やめて。慰めは、いらないから」
「……少し前に、久しぶりに水上と話したんだ」
掠れた抗議を聞こえなかったようにして、僕はあの時の話をする。ここへ訪れることになった、僕の後悔を突き付けられることになった、放課後の話を。
「僕たちが最初に会った時、僕と水上を恋人にさせるとかいって奔走してたこと、覚えてるか」
「……忘れるわけないでしょ。最初のことなんだから」
忘れることが当たり前で、忘れない方がおかしなほどに僕たちは長い時間を彷徨い続けてきた。それなのに覚えていてくれているのは、彼女が僕との思い出に特別性を見出してくれているということで、静かな喜びが心の中に響いた。
「当然だけど、水上はそんなことを覚えているはずがない。彼女は繰り返している人間ではないから、彼女の中には僕と付き合った記憶なんてないし、それどころかまともに話した記憶すらなかっただろうね」
繰り返しを経験している人間からすれば何を当たり前のことを、という話だろう。だから、ひとつ息を吸ってゆっくりと話を続ける。
「けれど、彼女は僕のことを覚えていたんだ。所謂デジャヴュのようなものとして、どうしてか彼女は僕と話したことがあるような気がすると言った。僕はそれが、単なる気の迷いではなくて繰り返しによる影響だと考えた」
「……繰り返しが、デジャヴュと何の影響があるの」
「つまり、何一つ残さないと思われていた繰り返しにおいて、記憶は無意識の中に堆積されていくんじゃないかということだ。それが、ごく稀に発露をすることがあって、あの時水上が僕に覚えた既視感のようなものはそれだったんじゃないだろうかって」
「そんなの、偶然かもしれない」
「そうだな。些か牽強付会気味な推論だということは自覚している。ただ、僕と付き合っている間、水上はそういうようなことを一度も言っていなかったんだ。つまり、あの繰り返し以降に何かがあって彼女は僕に対して既視感を覚えた。その変化に理由をつけるとするなら、やはり繰り返しに原因を求めるのが自然でもあるだろ」
繰り返す世界の中で逸脱した行動を取る人間は繰り返している本人か、その影響を受けた人間しか居ない。水上は繰り返している人間ではないし、彼女の周りに繰り返している人間の影も見えなかった。仮に居たとしても、僕への既視感を植え付けることなんて出来ないだろうし、出来たとしてもする意味がない。だからこそ、あの時の記憶の残滓が彼女の中に残っていたと考えることが、最も自然に見える。
「そして水上が話していた感覚は、どこか僕にとっては馴染み深いものでもあったんだ。名状することの出来ない蟠り。それを僕はいつも経験していた」
「蓮見君の、後悔」
「ああ、そうだ」
香深の言葉を首肯する。恐らく、僕の後悔は始まりの年に生まれたものではなく、それよりもずっと前に生まれたものだったのだろう。その後悔が発露し、繰り返しに巻き込まれることになった。自覚なんて、しているはずがない。過ぎ去った繰り返しを丸ごと覚えているということは不可能で、水上の例から考えるならばせいぜい覚えている人間が居たとしてもぼんやりとしたデジャヴュ程度なのだろう。彼女は僕との関わりに既視感を覚えたとしても、何をしたのか、何を話したのかまでを鮮明に覚えてはいなかったのだから。
「でも、繰り返しの中に蓮見君後悔の正体があると分かっても何も解決しない」
「そのことに関してだけど、ひとつ、僕は君に言ってなかったことがあるんだよ」
抱きしめているせいで香深の顔は見えない。けれど、今はそれで良かった。情けないけれど、まともに顔を見ていてはこれ以上言えない気がしたから。
「初めて香深と会った時。顔を見た時。僕は名状することの出来ないような既視感に襲われたんだ。どこか引っかかるけど、そのどこかが特定出来ないもどかしい感覚に」
「……君にとっての水上さんが、私にとっての蓮見君だったっていうこと?」
「恐らくはな。昔、教えてくれただろ。一回だけ僕とよく話をしていた繰り返しがあったって。多分、その時の記憶が引っかかったんだと思う」
「そんな偶然ってある?」
「あったんだから仕方ないだろ」
僕が薄く笑うと、香深も笑った。
偶然。随分と便利な言葉だ。
緊張を紛らわすためにゆっくりと息を吸って、吐く。春の夜の空気は冷たく、心地よく肺を冷やす。
僅かな逡巡だと僕は感じているけれど、実際には長い時間が経っていたのだろう。あまりにも遅かった。もっと早くに言うべき言葉だった。僕は不可逆的な言葉を吐き出す。
「ずっと、後悔していることがあった。しかしその後悔に気が付いた時にはあまりにも遅かった。もう取り返しがつかないと思った。でも、こうして言うことが出来る機会が訪れてくれたから、今度こそ逃げないから、言わせて欲しい」
いつの間にか、香深が僕を抱く力が強くなっていたことに気が付く。呼応するように、離さないように、僕も彼女の身体を抱きしめる。
そうして、言う。後悔を乗り越えるために。
「好きだ、香深」
「……うん」
壊れそうなくらいに抱きしめ、抱きしめられる。もう二度と離れないと世界に宣誓をするように、失われていた時間を取り戻すかのように静かに、強く。
「……蓮見君」
「何だ?」
「新しい春を待とう。二人で」
「……ああ」
そうして永遠を錯覚するような時間、僕たちは混じり合いそうなくらい抱きしめ合っていた。もう繰り返すことのない、僕たちの今を噛み締めるように、いつまでも。
それは世界から僕たち以外の人間が消えたような夜だった。僕たちしか居ない、完成された世界のようだった。
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