碧空 4
短い了承を聞く。指先に入っていた力が抜けた。
「じゃあ遠慮なく」
「うん、そうして」
現在、時刻は九時に満たない頃だろうか。この場を照らす日の光は鮮明だ。
やり取りが途切れても、ノアが吹き抜けから離れる様子はない。本当に当てもなく空を眺めていたらしい。
ノアが教えてくれた上空をもう一度仰ぐ。右隣との間で流れる沈黙に重苦しさは感じなかった。
「ノアってさ、兄弟いる?」
「居ない。一人だよ」
「あ、俺も」
せっかく側に居るのだから。そう思い至って話を振る。突然の質問に対しても、ノアは当惑することなく答えてくれた。どうしてと聞き返されなかった事がなんとなく嬉しくて、同時に気恥ずかしさが募る。頬に集まりかけた熱を逃すべく指先を組み直す。
「さっき、ポーラ……ミルクティーみたいな髪色のあの子と朝食を食べたんだけど。その時にそんな話題になったからつい気になって」
「そっか。食べ物、何用意されてたんだっけ?」
「サンドイッチ。普通に美味しかったよ。紅茶とかもいくつかあったから、ノアも飲みたかったら淹れにいっておいで」
「あぁ……うん」
頷いてからノアがなにかを言い淀む。階下に落ちた視線が揺らいでいた。
彼の左隣で欄干に体重を預ける。軽く伏す体制になった頭を傾けた。相変わらず、鼓膜に届くのは雑音ではなく濁りのない静けさだ。ノアの横顔を見る。覗く青色がやっぱり目を引いて、呼吸のテンポが遅くなる。
止まった会話の原因を尋ねる事なく待つ。数拍分の時間を置いてから、彼が酸素を取り込んだ。
「大丈夫だった?」
ノアが問う。
「……あの部屋を見に行った時。シャル、気分悪そうにしてたから」
薄く寄った眉間の皺から、ノアが何を思い出しているのかはすぐに分かった。視界に塗れた赤褐色と錆びついて
腹の底が強張った。食べ物を入れる前、空にしたはずの胃が不快感を呼び戻す。必死で抑えたはずの吐き気は、意識してしまえば簡単に高じた。唾を飲む。
ともすれば耳鳴りで埋め尽くされそうな聴覚に、詰問ではない、やわらかさを持った声が響く。
「食べられた?」
アシュクの部屋を飛び出す瞬間、確かに何人かの前を横切った。あの場で嘔吐するわけにも失神するわけにもいかなかった。赤黒く沈んだ空気の中で、皆が皆、部屋の中心に気を取られていたのだ。退室する俺を気にかけていた奴がいたなんて全く考えていなかった。
「ありがとう。もう平気」
他のことを考えるよりも前にそう返していた。
一人の不調、そんな些細な出来事をノアはどうして気にかけたのだろう。自身だって、もっと重大で残酷な舞台に立っているのに、どうして。
彼の目元がかすかに動く。ノアの作った表情に、胸の辺りが
「ちゃんと眠れたし、今朝は体調も悪くなかったよ」
ほら、と眼前で手を振ってみせる。そのまま切り上げられると思った話は、ノアの呟きに遮られた。
「眠れたんだ、シャル」
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