雨が君を連れ去ってしまう前に

蒼開襟

遠雷に雨1

 遠くで雷が避雷針に落ちた。弾ける音に一瞬顔を上げたが、稲光がピシャっと枯れ枝のように広がり、鳴り止むことのない雷は燻り続けている。路地を抜けて小さな地下鉄の入り口へ滑り込むと雨もまた階段をひたひたと降りていた。

 薄暗い壁は汚れており、チカチカ点灯する電灯の周りでは羽虫が飛びまわっている。

 ナツキは濡れた傘を数度開き、雨粒を飛ばしてから傘を折りたたむ。腕時計は午後七時を回っていた。久しぶりの外出で偶然会った友人とお喋りをして、戻ってくる頃には急な大雨。TVの天気予報はまたハズレで梅雨がもう来たのかと溜息をつく。卸したててのジャケットは雨に濡れて重く、ヒールは泥が跳ねて汚れていた。

 このあたりなら雨には濡れないし、雷の心配もないだろう。足を止めては見るも、階段を降りてくる雨のほうが少し心配だった。近頃は浸水してしまう地下道もあると聞いていたから、ここで立ち止まるほうが無難だ。

 ふと物音に視線を階段の下に移す。バシャン、カツンと響いている。規則正しいリズムで階段を上がってくるそれは男を連れてきた。いかにもサラリーマンという男は視線を上げて軽く会釈し、少し離れた場所で立ち止まった。

「……まだ雨凄いですか?」

「ええ、まだ」

「そうですか……困りましたね」

 何気なく始まった会話は一定の距離を保ったままで続けられた。

「下はどうですか?歩いてこられましたけど」

「……ああ、向こうから入ったんですけど、歩いてるうちに嵩が増して。今、膝くらいまであるんじゃないかな」

 その足元は膝元までぐっしょり濡れている。彼の説明によると少し下りになっているせいで深い部分があるようだった。

「それは大変でしたね」

「まあ、とりあえず水の中でないだけマシですかね」

 二人は顔を見合わせると、ハハハと笑う。その時だ。激しい水音がして、男は後ろを振り返った。表情は見えなかったが、声をかける間もなく、男は階段の下に急に消えた。

「え?」

 状況がわからず一歩足を踏み出す……が、男の叫び声と何か果物が潰れるような音が響き渡り足を止めた。

「何?」

 ナツキは一歩階段を上がった。ここにいてはいけない、そんなアラームが頭の中で響いている。足音を出来るだけ立てないように一歩ずつ階段を上がった。しかし目を逸らす事はできなかった。

 壁の電灯がチカチカと光って、やけにその音が耳についた。視線の先、階段の下からジャリジャリ音が聞こえる。あれはさっきの人の靴音じゃない。それに合わせてカツンカツンと何かがアスファルトにぶつかる音がする。

 ああ、これは逃げないと。ナツキはもう振り返らずに階段を走り出した。

 上まで登りきって豪雨の中を駆けてゆく。路地を抜けて人通りの多いほうへと向かったが、叩き付ける雨の中に人はいない。

 ナツキの口元で白い息が漏れ始めた。心臓はバクバクと走り、豪雨の中で後ろから来るであろう足音に耳を澄ませている。

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