血魅ノ花嫁――母を殺した男に嫁ぐ話

草野來

 母はいつも血の匂いをさせていた。

 ねっとりとして甘酸っぱい、鼻をつんと刺す匂い。それはまるで、いのちの匂い。どんなに髪をすすいでも、石鹸で身体を洗っても、けっして消えない、やつらの匂い。

 それが私にとって唯一の、母の記憶だ。

 ふしぎだ。母の声も、私を抱いてくれたはずの腕の感触も顔すらも、もはや憶えていないのに、匂いだけは今もなお自分の鼻の奥に残っている。

 たしかあれは私が五歳になったばかりの頃。真夜中だった。まだ肌寒さの残る季節だった。

『お母さん!』

 叫ぶ私の目の前で、母は刃に刺し貫かれた。ずぶりという音とともに、母の背から血脂に濡れた切っ先が突き出た。

母は口から真っ赤な血を吐いて、自分を刺した相手のかいなに倒れ込んだ。フロックコート姿のその男は、母を抱きとめ、微笑んだ。ぎらついた目を潤ませて、感極まったかのような表情で。

 紅茶色の髪に、切れそうなほど鋭いまなざし。広い額。その男の腕に包まれ母が目を閉じ、息絶えるのを私は見た。母のいのちが終わるのを、この目でたしかに見届けた。

 母は死の間際、とても甘くかぐわしく薫った。

 まるで花火が燃えつきる寸前に、最も華々しく輝くように。敵である男に胸を貫かれて、その男の胸のなかで母は絶命した。

 母について憶えているのは――それだけだ。




 これは、母を殺した男に嫁ぐことになった私の話だ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る