14.嫉妬とやさしさの狭間で
朝の空気は澄みわたり、ほんのり湿り気を帯びていた。
三人で屋敷を出て、庭の小道を歩く。遠くには菖蒲が咲き誇り、紫や白、青みを帯びた花々が風に揺れて静かに競い合っていた。
「まあ……綺麗ですわね」
彩芽が小さく声を洩らす。目を細めるその横顔は花の色にも負けないほど明るい。
環の胸がざわめいた。
──あやめ。
まるで花々が彼女の名を呼び、祝福しているかのように見える。
「……同じ名前なんて」
自分でも気づかぬほど小さな声で呟き、ぎゅっと拳を握る。
隣から蓮が視線を向けた。
「環、大丈夫か?」
環は慌てて笑みを作ったが、昨夜ほとんど眠れなかった疲れを隠せず、歩みは次第に遅くなっていく。
「ええ……平気、です」
「環様……」
彩芽が足を止め、環の顔をのぞき込む。
「やはり、お辛いのではありませんか?」
その声音は驚くほどやさしく、環の胸に痛みと温かさを同時に刻む。
「大丈夫。ただ……少し眠れていないだけ」
だが次の瞬間、身体がふらりと傾いた。
「環!」
すかさず蓮の腕が支える。強く、頼もしく。
至近の距離に息を呑み、頬が熱を帯びた。
「無理をするな」
短い言葉なのに、深い憂いと真剣さが滲んでいた。
「……私は、本当に大丈夫」
そう答える声は弱々しく、説得力を失っていた。
彩芽が静かに口を開く。
「旦那様……どうか、環様をお運びくださいませ」
「そんな、大げさな……!」
反射的に首を振る。
旦那様の手を煩わせたくない──そう思うのに。
彩芽は首を横に振り、真摯な声で言った。
「環様をお任せできるのは、旦那様しかおりませんもの」
その一言に心が揺れる。
──見られたくない。弱い自分を。
──でも、心の奥では甘えたい。
蓮の腕が差し伸べられ、環の心臓は激しく打ち続ける。
「……私は、自分で歩けますから」
かろうじて口にした言葉は、震えて力を持たなかった。
「環」
蓮が低く呼ぶ。その眼差しは厳しく、けれど誰よりも優しい。
「いい加減、強がるな」
次の瞬間、彼は容赦なく環を抱き上げた。
羽根のように軽々と。
「っ……旦那様!」
抗おうとする声は、頬の熱にすぐ呑まれる。
「大人しくしていろ」
低く落ちる声は命令のようでいて、不思議な安心を宿していた。
彩芽は目を細め、柔らかに笑う。
「まあ……旦那様に抱かれていらっしゃる環様、とてもお似合いでございます」
「っ……彩芽さん!」
環は顔を赤らめ、視線を逸らす。
その笑顔に、胸の奥で言葉が渦を巻いた。
──どうしてこの人は、こんなにも自然に笑えるの。
私は、嫉妬ばかりなのに。
◆
蓮に抱かれたまま、環は自室へと運ばれた。
寝台にそっと降ろされ、シーツの柔らかさに触れた瞬間、緊張がほどけていく。
「……水を」
蓮の声に、彩芽が一礼して部屋を出ていった。
静かな寝室に、環の鼓動だけが響く。
──こんなふうに抱き上げられるなんて。夢みたい。
けれど同時に胸を刺すのは、彩芽の笑顔だった。
「環様……どうか、無理をなさらないでくださいませ」
屋敷へ戻る途中に囁かれた、優しい声。
「……ごめんなさい。せっかく散歩に誘っていただいたのに」
「いいえ。環様とご一緒できただけで、私は嬉しゅうございます」
思い返すたび、胸の奥がちくりとする。
どうしてあの人は、あんなに自然に優しくできるの。
私は、嫉妬ばかりしているのに。
唇を噛んだとき。
「……環」
蓮の低い声に顔を上げる。
覗き込む瞳は真剣で、揺らぎがなかった。
「何を考えている」
「……少し、彩芽さんのことを」
思わず正直に答えてしまった。
蓮の眉がわずかに動く。
その眼差しを受け止めきれず、環は目を閉じた。
胸に渦巻くのは、彩芽への戸惑いと、自分の弱さへの苛立ち。
悔しさと羨望。
そして──ほんの少しの甘えたい気持ち。
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