12.すれ違う夜、重なる想い
夜、離れへ向かう。
蓮に会うため──何度も通ったはずの中庭なのに、今日は胸の奥が落ち着かない。
昼間の少し垣間見えた笑みや声が、何度も頭をよぎってしまう。
それが嬉しくて、気づけばいつもより早く部屋を出ていた。
(旦那様……まだ来てないかな)
胸の高鳴りを抑えながら縁側を見た瞬間──息が止まった。
そこに座っていたのは旦那様、そして……その隣に女性。
見覚えがある。
初めて夜の旦那様を見たあの時、私に声をかけてきた人。
彼女が、旦那様のすぐ横に座っていた。
胸の鼓動が耳の奥でやかましく響く。
冷たいものが喉から心臓にかけて広がっていく。
(夜の──あの姿の旦那様が……誰かと一緒にいるの、初めて見た)
二人の会話は聞こえない。
けれど、声などなくても伝わる──あの距離感、視線、空気。
そこには、私がまだ踏み込めていない領域があった。
目を逸らしたいのに、逸らせない。
まるで見てはいけないものに縛りつけられるように。
やがて、彼女が旦那様に身を寄せた。
やめて──近寄らないで。
胸の奥で何かが軋む。
言葉にならない黒い感情が、じわりとあふれ出す。
そして彼女は旦那様の耳元で何かを囁いた。
獣の耳がぴくりと動き、旦那様が彼女を見つめる。
その表情──私の知らない、照れと優しさを帯びた笑顔。
金色の瞳がやわらかく光り、彼女だけを映している。
二人は笑い合った。
同じ景色の中に、私の居場所はなかった。
胸の奥がきしむ。
ただそれだけで、完敗だった。
足を引きずるようにその場を離れ、部屋へ戻ろうとして──
気づけば藤棚の下に立っていた。
夜の冷たい空気が頬を撫でる。
旦那様と一緒に見たときはあんなに美しかった藤も……今は香りを失い、まばらな影だけを落としていた。
(……私、旦那様の何なんだろう)
昼間は並んで歩き、同じ景色を見て、同じものを食べ、同じように笑った。
あの時間で心の距離も縮まったと思っていた。
でも、それは私だけの錯覚だったのかもしれない。
今、旦那様の隣で笑っているのは私じゃない。
耳元で囁かれ、あんな表情を引き出すのも、私じゃない。
──契約結婚。
私たちは夫婦であれど、その結びつきは決められたもの。
心まで結ばれていたわけじゃない。
思わず胸を押さえる。重いもやが押し寄せ、呼吸が浅くなる。
答えは見つからず──ただひとつ、「もう離れには行けない」という思いだけがはっきりしていた。
灯りを落とし、布団に潜り込む。
まぶたを閉じれば、縁側の二人が鮮やかに浮かぶ。
耳元に顔を寄せる仕草、ぴくりと動く獣の耳、金色の瞳のやわらかな光──。
(……どうして、こんなに苦しいの)
言葉にならない問いを抱えたまま、浅く不安定な眠りへ沈んでいった。
──side 蓮
縁側で一人、環を待つ。
昼間の彼女の笑顔や、少し照れた横顔を思い出しながら──ただ、その余韻に浸っていた。
そこへ、遠慮のない足音と声。
「久しぶり~! 最近、愛しの環ちゃんとはどうなの?」
「……」
「ちょっと、何か言いなさいよ! ははん、どうせ何も変わってないんでしょ?」
「……今日は、二人で寺に行った」
一方的に話す彩芽にうんざりしつつも、答える。
その途端、彼女はさらに距離を詰めた。
「え? うそ……あんたが!? 寺って……花まつりのことよね?」
「ああ」
「人混み嫌いのあんたが? 私が誘っても来なかったくせに!」
……だから言いたくなかった。予想通り、煩い。
「ふーん。私じゃなくて環ちゃんの誘いなら行くんだ?」
「……違う」
「?」
「私が……誘った」
彩芽が驚きに目を見開く。
そんなに意外だろうか。
また騒ぐかと思いきや──
「そっか……良かった」
珍しく穏やかな笑顔。
その顔を見せたあと、彩芽はさらに近づき、耳元で囁く。
「そんなに環ちゃんのこと……愛しちゃってるんだ」
もうひとつの──獣の耳が反射的に動く。
驚いて視線を向けると、彩芽は嬉しそうに笑っていた。
それを見て、思わず口元が緩む。
……そうだ、彩芽にも長く心配をかけてきた。
環のことを話すのは気恥ずかしいが、彼女が安心するなら悪くない。そう思った、そのとき──
環の気配を感じた。
振り返る。しかし、そこには誰もいない。
……気のせいか。まだ来る時間には早い。
そんな私をよそに、彩芽は立ち上がる。
「じゃ、環ちゃん来る前にお姉さんは退散するわね」と笑い、歩き出したが、すぐに振り返った。
「環ちゃん。いい加減ちゃんと紹介してよ?
明日の朝食のとき、会いに行くから」
「……ああ」
そう答えると、彩芽は満足げに去っていった。
縁側でひとり、環を待つ。
けれど、その夜──環は現れなかった。
待つ時間が過ぎても、風が縁側を通り過ぎるばかり。
胸の奥に小さな不安が根を張り始める。
(……環。どうして来ない)
約束をしたわけではない。
それでも今日は、必ず会えると信じていた。
灯りを消さずに待ち続ける。
けれど夜は静かに深まり、返事のないまま過ぎていった。
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