8.花咲く笑顔と、凍る心
side 蓮
環の言葉が、胸の奥深くへ静かに落ちていく。
優しい──そう呼ばれたのは、いつ以来だったか。いや、そもそも、そんなふうに言われたことなどなかったかもしれない。
月明かりが彼女の瞳に淡く宿る。
真っ直ぐで、逃げ場を与えない視線。耳も尻尾も恐れず受け入れ、ためらいなく触れてくる。その掌の温度が、皮膚を越えて心臓の鼓動まで包み込んでくるようだった。
「恐くなんてありませんよ」
その一言が、頭の奥で何度も繰り返される。
──本当にそう思っているのか。
信じたい。しかし、信じ方をとうに忘れた自分は、どこかで足を引く。長年染みついた疑いと警戒が、肩に影のようにまとわりつく。
夜風が銀毛をそっと揺らしたとき、環がふっと笑った。
それは、花の蕾がやわらかくほころぶような笑み。頬にわずかな紅が射し、目元がやさしくゆるむ。その瞬間、胸の奥に温かな灯がともる。理由もなく、それだけで呼吸が深くなる。
「……何がおかしい?」
問いかけると、環は慌てて首を振った。
「ご、ごめんなさい。旦那様が可愛くて……つい」
可愛い──?
その言葉は、自分に向けられるはずのない響きだった。恐れられ、避けられてきた私に。
「……可愛い、だと?」
低くなった声にも怯まず、環は真っ直ぐ見返してくる。
胸の奥で、何かが小さく波を立てた。
夜風が再び吹き、彼女の髪が頬にかかる。払おうかと迷い、結局は視線だけ落とす。
やがて、まぶたがゆっくりと閉じられた。それは拒絶でも恐怖でもなく、全てを預ける者の仕草。
(……信じているのか、俺を)
そう思った瞬間、張り詰めていた心の糸が緩んだ。
そして、環は静かに眠りへ落ちた。
「……寝たのか」
返事はない。肩に触れると、全身の力が抜けている。疲れ切っていたのだろう。あどけない寝顔が、ひどく愛おしいと思えてしまう。
──愛おしい?
先ほど「可愛い」と言われたときよりも、自分がそう感じていることの方が、よほど驚きだった。
「……お前の影響だな」
思わずこぼれた言葉に、自分でも戸惑う。
それでも否定できない。この娘に触れられてから、私の中の何かが少しずつ変わっている。
不思議と、それが嫌ではなかった。
そう思った矢先、環が「……ん……っ」と小さく声を漏らし、寒そうに身を縮めた。
春になったとはいえ、夜はまだ冷える。羽織を肩へ掛け、そっと抱き上げる。
軽い。
想像以上に。
胸元へ流れ込む体温に、鼓動がひときわ強く跳ねる。尻尾が揺れそうになるのを抑え、縁側を離れ、足音を殺して廊下へ踏み出す。
古い床板が踏みしめるたびにかすかに鳴き、障子越しの月光が桟を白く縁取る。等間隔に並ぶ影を視線でなぞり、余計な思考を押し込めようとした──その瞬間。
「……ぎ、ん……」
腕の中で、彼女の唇がかすかに動いた。
聞き間違いかと耳を澄ます。
「……銀次さま……」
足が止まった。
その名は、俺ではない。この屋敷の者でもない。眠りの底から無意識に零れるほど、深く染みついた呼び名。
胸の奥に、冷たいものが静かに広がっていく。
政略結婚の経緯、初めて会ったときの硬い表情、逸らされた視線──断片が一つの線となり、冷たい輪郭を描き出す。
(……そうか。心は、その男のもとにあるのか)
奥歯が強く噛み合わさる。
変わらぬはずの月明かりが、視界の端だけを黒く沈めた。
腕の中の温もりが、急に遠く感じられる。
それでも、手放すことはできない。いや、なおさら離せなくなった。
眠る彼女の呼吸が、ゆるやかに胸へ触れては離れ、触れては離れる。
それが心地よいはずなのに、今はひどく痛い。
──銀次さま。
その名が、耳の奥で静かに反響する。何度も、何度も。
眠りの中で呼ぶほどに深く刻まれた存在を、果たして自分は塗り替えられるのだろうか。
抱き上げた腕に力を込める。
まるで答えを試すかのように、確かめるように。
この温もりが、いつか自分だけのものになる日が来るのか、それとも。
廊下を進む足音が、古い家の静けさに吸い込まれていった。
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