三文作家と過去の記憶②

「アレクサンドラ・アトキンソン侯爵令嬢。貴様との婚約を破棄する!」


 アリーがその言葉を浴びせられたのは、王立学園の卒業式典のときだった。

 王太子エリックとは長く婚約者の関係にあった。アリーは薄ぼんやりとしか覚えていないが、幼少期に王太子の誕生日を祝うパーティーに参加して、その時にエリックがアリーのことを気に入ったらしい。

 そのパーティーは、王太子の将来の側近や妃となる同年代の子どもたちを青田買いするために設定された催しで。

 そこに『あわよくば』と思って娘を参加させていたアトキンソン侯爵は、娘が首尾よく王太子の関心を引いたと知って、喜んで王家からの婚約の打診を受け入れた。


(ああ、忌々しい)


 婚約破棄? 上等だ。

 そもそもアリーは一度だって、エリックと『婚約したい』とか『結婚したい』だなんて思ったことはなかった。

 相手の好みで勝手に婚約者に選ばれただけだし、彼はアリーにとって、全く魅力的な人間ではなかった。


(この場で『婚約破棄』なんて言い出して、騒ぎにする意味があるのかしら? 庶民におかしなゴシップを提供するだけよ。私が気に食わないのはいいとして、ご自分までゴシップの矢面に立とうだなんて、奇特な趣味をお持ちなのね)


 要は、エリックは、頭が良くなくて、後先を考えない。

 それを憂えた国王、王妃や宰相は『国王の出来が悪くても支えられるくらいに優秀な王妃にならねば困る』とアリーの妃教育に口を出して発破をかけた。

 ところが熱心に教育されればされるほど、『斯くあるべし』と示されれば示されるほど、エリックが『あるべき姿からかけ離れている』ことを理解せずにはいられなかった。

 アリーが『将来の王妃としてふさわしい令嬢』に育てば育つほど、アリーにとってエリックは『独りで立つこともできない幼稚で愚かで自分よりも劣った男』に見えるようになる、という悪循環。

『ダメな人だけど私が彼を支えたい』『彼のために私が頑張らなくては』と思えるような恋愛感情の素地もないままに婚約させられたのだから、エリックへの悪感情が育つ一方になったのも、当然の結果であった。


(おまけに、王太子殿下が浮気相手に選んだのは、平民出身の愛人だとか……暮らし向きも、受けてきた教育のレベルも何もかも違う。共通の話題なんて無いのに、いったいどうやって、仲良くなったというのかしら。残念ながら私には『顔か身体が気に入った』という理由しか思い浮かばないのだけれど)


 愛人の内面には好意を持つとっかかりとしての共通項すらないのだから、エリックが彼女にぞっこんなのは、愛人の『それ以外』を気に入ったとしか思えない。

 ……やはり、顔か。アリーのことだって、ろくに話したこともないのに、ぱっと見の印象だけで婚約者に選んだのだから、彼はきっと死ぬまでそういう男なのだろう。


「申し訳ございません、王太子殿下。このような不出来な娘とは縁を切りました」


 それにしても、せっかく掴んだ王家との縁を台無しにするなんて、アリーの父ならいかにも激怒しそうなもののに、その父は胸の前で手をにぎにぎと組んで、何やら言っていた。

 どうやら、エリックは父には先に話を通していたらしい。きっと『婚約破棄の賠償はする』と約束されて、侯爵は『損はない』と判断したのだ。……前もって話があったなら、同じ機会にアリーにも話しておけば手間が省けたのに。

 ここで急に知らせたところで、まともな人間なら『持ち帰って検討します』とやりとりを停滞させてしまう。不意打ちをする利点など全くないが、エリックも父侯爵も、効率性というものを意識したことがないのだろうか。


「ふんっ、侯爵の教育が不十分だったから、こういうことに……」


 呆れ果てて絶句していたアリーが言葉を取り戻したのは、その言葉を聞いた瞬間だった。


「……はぁ?」


 不出来。不十分。父侯爵や王太子は、アリーのことをそう評した。

 物心つく前から、努力は絶えず続けてきた。

 誰からも文句が出ないように、誰よりも優れた存在であれ。付け入られる隙も与えない完璧な存在であれ。それでいて、王太子の面目を無くすほどに目立ってはならない。

 独りで立てない王太子を支えるために、彼の代わりを務めることができる程度の能力を身につけろ。だが、そのことを、王太子には悟らせるな。周りの者には見せつけながら、王太子には話が伝わらないように気を配れ。――まったく、無茶を言ってくれる。


(馬鹿みたい。『王太子がいなくても何とかできる代わりの人』を作るなら、王太子なんて要らないじゃない。『王太子よりも下がって王太子を立てる人』が欲しいなら、立派な妃になるための教育なんて要らなかったじゃない。まったく効率的じゃない、育て方を間違えている。『それなりに立派な妃よりもさらに優れた国王だ』という『嘘』を本当に見せかけるために、『私』を無駄遣いしただけじゃない。それなのに……その結末は、これ?)


 せめて、王太子がそれなりに頭が回り、自分に正義があると見せかけて、アリーにとんでもない重罪を着せて、追い落とそうと企むならマシだった。

 ところが、実際には、彼は『運命の恋』とかいう頭の弱い理由を通すために。反対しそうな輩を金の力で黙らせるという馬鹿らしい手段を使って、金で裏切る頼りない味方を引き連れて、アリーを陥れようとしている。

 そして、なんとも悲しいことに、このままではアリーは彼らにまんまと排除されてしまう。


(冗談じゃない。じゃあ、これまでの私の人生は何だったの?)


 ここまで騒がれては結婚のクチを探すのも難しいだろう。令嬢としてのアリーは、ろくな未来は残っていない。


 ――でも、ここで退いたら、アリーの人生はさんざん他人に無駄遣いされた挙句に、ポイ捨てされる惨めな人生だったということになる。それは、嫌だ。


 ――ならば、『死んだ私』以外の私を使って、私は彼らに復讐する。

 残った私にだって十分に価値はあって、私の人生はこれからで、これから何でもできるんだって証明してやる!


 おとなしく婚約破棄を受け入れたアリーに、厳しい監視はつけられなかった。

 修道院に送られる途中で馬車から逃げ出したアリーは、真っ先に駆け込んだ雑貨店で鋏を手に入れると、最初に腰まで伸ばしていた金の髪を刈った。

 宮廷人の悪口では『輝きが足りない』とか『癖がついていてみっともない』とさんざんに言われていた髪は、切り離した束にしてみると、案外綺麗なものに見えた。これなら、かつらの材料として高く買う者もいるかもしれない。


「ふう。すっきりした」


 けれど、切った髪よりも、髪の短くなった自分の方がずっと好きだと思った。

 軽くなった頭は、髪をきつく結い上げたときの痛みに悩まされることもなかったし、後ろでくくれば帽子にも納まる。

 誰かの決めたルールなんかに従わず、寝たいときに寝て、食べたいものを食べ、出かけたいところに出かけられる暮らし――ああ、なんと素晴らしき人生だろう!


「巷に流布している王太子殿下のゴシップを集めて調べた。その中には、王太子殿下が婚約破棄をした場に居合わせた者しか知らない内容が含まれている。アトキンソン家であったやりとりについても……アトキンソン家ゆかりの者で王太子の悪評を流す動機のある者、お前が噂を流したとしか思えない」


 訪ねてきた男は、アリーの悪事をすっかり把握しているようだ。否定も肯定もせずにいると彼は苛々と脚をゆすった。


「自分を裏切った人間を徹底的に破滅させて楽しいか?」

「……その程度で破滅するのが悪いでしょう? 弱みがなければ、私がどう言おうと影響しないでしょうに」


 アリーは小首を傾げた。

 別に、楽しくはなかった。ただ、彼らに有利にあることないこと好き勝手に言われたことにはむかついたから、アリーは『自分の知る真実』を広めただけ。

 それが悪かったとは、どうしても思えない。


「あの方にもそうする気か!?」

「分かりました。もう、彼とは関わりません」


 ただ、リックの身内が、そんな女をリックの傍に置いておきたくないと思うことは、当然のことだと理解もするし、胃を痛めているだろう彼らの立場に同情もする。

 アリーとしても特に恨みもない彼らを困らせたいわけではないから、あっさり了承すると、男は怪訝な顔をしていた。


「……引き離されたくないと思わないのか?」

「何がです?」

「……いや。理解を得られて感謝する。これは手切れ金だ」

「要りません」


 差し出されたぱんぱんに膨らんだ袋は、手で押し止めて受け取らなかった。それを見た男が意外そうに息を吐く。


「ほう、お前にもまだ、貴族の誇りがあったようだな」

「貴族の誇り? そんなものは、とっくに犬に食べさせましたけれど」


 だって、その貴族の誇りとやらは、アリーが生家に、アリーを見捨てた父の娘として生まれたことについての愛着、ということだろう。

 そんなものは、この期に及んで残っているはずはない。

 それに、アリーは、それほど寛容で太っ腹な人間というわけでもなかった。


「私は『手切れ金は要らない』と言っただけです。『私が協力することの対価は要らない』なんて、一言も言ってない。他の形で協力してくれなくちゃ、割に合わないわ」


 ――誇り高いお貴族様なら『そこをなんとかタダでやってくれ』なんて買い叩いたりしませんよね?


 挑発的に微笑むと、男はぐぬぬと唸ってしかめ面になった。

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