三文作家と押しかけ読者④
アリーの眼下に見えるのは、川幅ばかり広いものの、排水が垂れ流されて悪臭のするドブ川だ。こんな場所に好き好んで長居する者はいないから、独り静かに考えをまとめるには絶好の場所だと考えていたのだが。
「やっと見つけた!」
その静かさも騒々しい声に破られてしまった。
靴音を立てて駆け寄ってきたリックの頰は紅潮していた。まさか、ここまで馬車で来たのではなく、アリーの後を追って自分の足で駆けてきたのだろうか。
彼は、どういうわけか、黒革の手帳を胸の前で抱えていた。
「これを見てくれ! 大発見だ! 祖母の日記帳によれば、祖父母には、幼少期に面識があったんだ! 初めて会った時に、まだ幼かった祖父は、庭の花を摘んで花輪にして、祖母に渡して……祖母は、それを押し花にしてとっておいたらしい」
リックは、彼の大好きな祖父母の『美しい思い出』を心底嬉しそうに語った。
「……へぇ。そうなの」
「ああ! だから、年頃になって再会してから、祖父は祖母の窮状を知って……」
「――ねえ。いつまで私を無駄な話に付き合わせる気?」
純粋無垢な子どものような笑顔。それを見ていると、無性に苛ついて腹が立った。
(馬鹿みたい。『子どもの頃から両想いで、最後まで想いを貫き通して幸せに暮らしました』って? そういうのは、おとぎ話の中にしかないのよ)
だって、現実はそんなにうまくいかない。
想いを寄せた人が自分に同じ想いを返してくれる保証なんてないし、仮に、一時、両想いになれたとしても、ひとの想いは変わるものだ。幸せなままで終われる恋は、どれだけあるのだろう。きっと、奇跡のように少ないはずだ。
「何度も言ったでしょう。あなたは、あなたの信じたいものを信じていればいい。私は、そんなものが両想いの証拠にはならないと思う」
「これでもまだ足りないか? 祖母は、祖父から花の指輪を受け取って、わざわざ押し花にして、何十年もずっと大事に保管していた。子どもの頃のことだ。家の事情なんて気にもしないだろうし、嫌いな人間からの贈り物なら、そんなことはしないだろう? だから――」
好きだから指輪を贈った。好きだから指輪を受け取って、大事に取っておいた。
――本当にその公式が成り立つとしたら、世の中はもっと単純に出来ているだろうに。
あまりにも世間を知らない言葉を聞いて、笑ってしまった。
「そんなことはするわよ。私だって、本心から『嬉しい』って思っているように見える顔をして、大げさに喜んで受け取って、ずっと手元に置いておくわ。大嫌いな人からもらったものでも」
「なぜ?」
「捨てたと知れたら、後が怖いじゃない」
自分よりも立場が上の人間の不興を買えば何をされるか分からないのに、不用意なことをできるはずもない。――少なくとも、アリーの場合は、そうだった。
(『殿下』の機嫌を損ねてはいけない。殿下がせっかく、私のことを気に入ってくださったのだから、私は、それに応えなくてはいけない。妃教育がどんなに大変だとしても、殿下に愛されることは光栄なことだから。……でも、私は、『選んで』なんて頼んでないのに。どうして、殿下は私を選んだの? どうして、一度は選んでおきながら、あっさりと……)
ああ、いけない。最近は、夢に見ることも少なくなってきていたのに。
嫌な記憶が蘇って、ぐらりと揺らいだアリーの身体を、頼もしい腕に支えられた。
「アリー! 大丈夫か!?」
「あ……ごめんなさい。ちょっと、眩暈がしたの」
「体調が良くないのか!? 横になった方がいい!」
「大丈夫……少し動かずにいれば、収まるから。いつものことなの」
橋の欄干にもたれかかって、呼吸を整えた。
見上げれば、思ったよりも近くに、心配そうな貴公子の顔が見えた。彼は、自分が敬愛する祖父母のことを、事情も知らない部外者の小娘から悪しざまに言われても、それでもその相手を思いやることができるのか。お人よしにもほどがある。
それくらい情があるからこそ、祖父母への侮辱を捨て置けない頑固さも兼ね備えているのだと思うと、一長一短ではあるけれど、これは間違いなく彼の長所だろう。
「……ごめんなさいね」
「何が?」
「あなたや、おじいさまとおばあさまに、恨みがあるわけではないの。でも、私はどうしても、信じられない。私たち、お互いに分かり合えないのだから、近づかない方がいいと思う。近づいたあなたが、嫌な思いをするだけだから」
お互いに信じたいことを、信じたいように信じていれば、それでいいじゃないか。今後関わることも無いのだから、異なる考えがぶつかって不都合が生じることもないだろうし。
アリーがそう言うと、リックはゆるく頭を振った。
「……嫌だ」
「いや、『嫌』と言われましても」
「僕が近づくと、君は嫌な思いをするだろう。それは申し訳ないと思うが……それでも、僕は、君に分かってほしい。ああ、君の意見を曲げさせたいわけじゃないんだ! なんというか……」
彼は言葉に迷うように視線をさまよわせてから、言った。
「君が悪いんじゃなくて、僕の準備が足りないから、君に納得してもらえないんだと思う。だから、僕は、君を納得させる材料を準備するから」
「……どうして、そこまで、私にこだわるの? 今ここで、私が『私は間違っていました』と認めれば、それで満足?」
口先だけでもそうすれば、リックは二度と近づかないでいてくれるのだろうか。
アリーが期待を込めて尋ねると、彼は即座に『否』と答えた。
「君の他の本も読んだ。君は、人間のことをとても冷ややかに見ている。好き嫌いとか思い入れとか、そういうものを抜きにして……理屈と証拠だけを携えて。そういう君だからこそ、君に『僕の考えが正しかった』と認めてほしいんだ」
「……ぐうの音も出ないほど屈服させたいってこと?」
「違う。僕は、君の『目』が欲しい。……真実を見抜く目は、僕にとって、これから必要になるから」
彼の言い方は抽象的で、アリーにはよく意味が分からなかった。
だが、彼は、アリーを罰するために追い回しているのではなくて、別の目的があって、そのために、アリーに『自分の正しさ』を認めさせたいということらしい。
「……よく分からないけれど、私は、あなたの機嫌を取ってご追従を言うなんてまっぴらよ。王侯貴族は嫌いなの。特に、偉ぶった輩のことはね」
処刑されないのなら、こちらのものだ。
欄干に触れて砂ぼこりがついたスカートの裾を手で払い、背筋を伸ばしたアリーは彼を睨み上げた。
「私は、私の書きたいものを書く。あなたたちに都合のいいだけの物語なんて綴らない。三文作家にだって、それくらいのちっぽけなプライドはある」
強いられたって、自分の意思は曲げない。それでいいか、と挑むように見つめると、リックは花が綻ぶように笑った。
「ああ、それでいい。そうでなければ意味がない。頑固な君だからこそ、意味がある」
「可愛げがなくて悪かったわね。私が気に食わないなら、どうぞご自由に牢にでもぶち込めば?」
「そんなことはしない。僕は、君に、今のままでいてほしい」
――今の君に、君のままでいる君に、僕の話を聞いてほしいんだ。
リックが望むのは、本当にそれだけなのだろうか。これまでの人生で一度も願われたことのない内容を聞いて、アリーは少したじろいだ。
「……あなたの話を聞くと、その分、私の時間が削られるでしょう。おまけに、あなたの話にうっかり納得してしまえば、私は本の訂正の手配をしなきゃならなくなる。手間もかかるし、版元は私にも『賠償金を払え』と言ってくるかもしれない。『裏取りもしていない本を出したから訂正したんだ』と噂が広がれば、私の名前には悪いイメージがつくだろうし、次の本が売れなくなるかもしれない」
アリーが並べ立てた協力を渋る消極的な言葉の数々を、リックはじっと聴いていた。
「それでも私の時間を割いてあなたの話し相手をしろと言うのなら、最低限、私にとって利益になる話をして。あなたが知っている上流階級の醜聞のネタを寄越しなさい。ああ、公爵家のおしどり夫婦のほのぼのエピソードなんかじゃなくて、もっとどろどろしていて、汚職と裏切りが横行するようなネタがいいわ」
「祖父母の話も、僕にとっては大事なことなんだが……分かった。僕の話を、変に歪めないと約束してくれるなら協力する」
「約束するわ」
「……ん? その指は何だい?」
アリーがずずいと突き出した小指を見て、リックは首を傾げた。
「前に船乗りから聞いたの。東方のまじないなんですって」
彼にも同じように小指を出させて、小指同士を絡めた。
確か『脅し文句』はこういう歌詞だったか。
「――嘘吐いたら、針千本呑ます」
「針を呑ます!? しかも、千本も!?」
「指切った、と」
「指を切る!? どうして!? 犯行予告かっ!?」
世間知らずなボンボンには、この程度の脅しで十分だろう。
怯えて震える彼はどこか小動物じみていて、見ていると自然と笑みが浮かんだ。
「これからよろしくね、リック」
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