7年
石神井川弟子南
第1話 春のカーテン
引っ越しトラックが去ったあと、部屋に残ったのは梱包材のにおいと、窓辺の春の光と、わたしたちの笑い声だった。新居の床は、思っていたより少し白っぽい。靴下の裏にさらさらと粉のような感触がついて、それを見せ合っては「ほら、もう家の色になってる」とふざけた。青い皿は、二人で最初に買った食器だ。駅前のリサイクルショップで、ほこりを拭きながら手のひらに乗せると、海の底をすくいあげたように光った。店主の女性が「仲良しさんね」と言ってくれて、わたしたちは顔を見合わせて、小さく会釈した。
カーテンは迷いに迷って、薄い生成りにした。昼は光をやわらかく通して、夜は街灯の円をほどよく散らす。カーテンレールに通す金具が一つ足りなくて、最初の夜は端が少しだけ垂れ下がったままだった。その頼りない隙間から、四月の風がすうっと入ってきて、まだ段ボールに詰まった皿や本に、未完成な家の匂いを運んだ。ベッドはない。マットレスを床に直接置いて、毛布をかけ、その上に並んで眠った。天井が近いと、天井の模様がわかる。小さな点々が渦を巻いて、目を閉じる前にその渦を指でなぞるふりをした。わたしが「指で触ると願いが叶うらしいよ」と適当なことを言い、あなたは「じゃあ、朝も同じ湯気が見られますように」と目を閉じた。
朝、湯気は約束どおりに現れた。湯沸かしケトルの口から白い細い糸が立ちのぼり、窓の方へと流れていく。青い皿に、コンビニのパンを半分切ってのせる。皿は思いのほか重みがあって、テーブルに置くと、ちいさく低い音が鳴った。二人でその音を気に入って、「今日の音」と呼ぶことにした。冷蔵庫には、マグネットでメモを貼る場所を作った。「牛乳」「電球」「ゴミ袋」と書いた横に、あなたが小さく「おかえりは合図」と書き足した。玄関のドアを開ける音が合図で、キッチンから「ただいま」と返す練習を何度もした。
最初の一週間は、家の機能をひとつずつ覚える時間だった。洗濯機の水量ボタンは少なくにし、電子レンジは「スタート」は一分。ガスコンロの火が風で揺れやすいから、窓は半分だけ開ける。ベランダには前の住人が置いていったプランターが二つ。土は乾いてひび割れていたけれど、わたしたちは八百屋でバジルの小さな苗を買ってきて、そこに植えた。苗は指二本でつまめるほどの頼りなさで、葉脈がやわらかく透けていた。水やり係は交代制。朝はわたし、夜はあなた。名札をつけるみたいに、割り箸に「バジル」と書いて土に挿すと、急にそれは家族になった。
夜のコインランドリーは、洗濯機が壊れた日の偶然の冒険だった。蛇口の締めが甘くて、洗面所の床に薄い水の膜が広がり、二人でぞうきんを持って四つん這いになった。濡れた服をビニール袋に詰めて歩きながら、「故障も、はじまりの挿話にちょうどいい」とわたしが言うと、あなたは笑って「じゃあ、エピグラフは?」ときく。「青い皿と白い湯気」とわたしが答えると、「いいね」とあなたが言った。コインランドリーでは、巨大なドラムがオレンジ色に光って、ぐるぐると宇宙のように回っていた。乾燥機の前の椅子で、わたしたちは雑誌を開き、ソファのない家でくつろぐ代わりに、その硬い椅子の上で肩を寄せた。タイマーの数字が減るたび、あなたは指でカウントダウンして、ゼロになった瞬間、ぱちんと指を鳴らした。
小さな喧嘩は、ゴミの分別だった。燃えるゴミ、燃えないゴミ、プラ、資源。あなたは速さを重んじ、わたしはラベルを読み込みたい性分で、キッチンの前で互いに動線を邪魔し合った。「もう少し待って」とわたしが言うと、「今なら持っていくついでなんだ」とあなたが言い、声の温度がほんの少しだけ低くなった。それでも、冷蔵庫のメモの横に新しい紙を貼って、色分けと矢印を書いた。書いている間に、わたしたちは並んで立って、ペンのキャップを口で抜くあなたの癖を見つけ、笑ってしまった。ごめん、と言うのは意外と簡単で、簡単であることに救われた。
日曜の朝は、いつしかスープの日になった。玉ねぎを薄く薄く切って、鍋の底で飴色になるまで気長に火を入れる。その間にパンを焼いて、ベランダのバジルを一枚だけ摘む。キッチンの狭さが、儀式の順番を決めた。通り道がひとつしかないから、右へひとが通るときは左が待つ。待つことが、合図になる。あなたはいつも、鍋の湯気を見上げるとき、少しだけ目を細める。湯気の中に未来の形を探すみたいに。その横顔が、わたしは好きだった。
駅までの道に、八百屋がある。店先に並ぶ野菜には、必ず一つだけ形のちがうものが混じっていて、それを見つけるのが二人の遊びになった。「今日のへんてこ、発見」と言って、曲がりくねったきゅうりや、星みたいな形になったにんじんを指さす。店主は最初、わたしたちのその仕草を怪訝そうに見ていたけれど、そのうち「へんてこ、こっちにもあるよ」と声をかけてくれるようになった。買って帰ったへんてこな野菜は、青い皿の真ん中に置く。真ん中に置くと、どんな不格好も祝福されるみたいだった。
初夏の雨の日、傘は一本にした。歩幅が合わないと肩が濡れるから、自然に歩幅が合う。横断歩道の白の間隔を数えて、二人同時に一歩目を出す練習をした。あなたが右手で傘を持ち、左手は自然とわたしのショルダーバッグの上に乗った。信号待ちのあいだ、前に並ぶ人の背中に小さなホコリがついているのを見つけて、そっと取る。そんなささいな触れ方に、生活の穏やかさが積もっていく。濡れた靴を玄関で並べ直すとき、つま先の角度をそろえると、帰ってきたという実感がいつもより強くなる。わたしたちは、その角度のことを「おかえりの角度」と呼んだ。
夜になると、ソファの代わりに床に座って、段ボールを少しずつ開けた。本が出てくるたび、ページをぱらぱらめくる。あなたは背表紙の匂いを嗅ぐ癖があって、それを見ていると、高校時代の図書室の午後がふいに蘇った。わたしは本のあいだから、昔の映画の半券を見つけて、それを青い皿の下にそっと挟んだ。「お皿のお守り」と言うと、あなたは「じゃあ、こっちは」とポケットから紙片を出した。「今日のよかった三つ」。あなたがメモ帳に書いていたのは、仕事の帰りに見た夕焼けの色、コンビニのレジの人の親切、そしてわたしが麦茶を冷やしておいたこと。わたしたちは夜ごと、互いの三つを交換して、空き瓶に折って入れることにした。瓶には「あとで読む」とラベルを貼った。次の記念日に開けよう、と約束した。
バジルは、一度しおれた。葉が垂れて、土が乾いているのは見ればわかったのに、わたしたちはそれぞれが相手が水をやったと思い込んでいた。夜、茎がぐにゃりと曲がり、二人で慌てて霧吹きを取り合って、水をやりすぎるほどやった。次の朝、信じられないほどしゃんと立っていた。ふくらんだ葉の縁に、光がやさしくたまっていた。「ごめんね」とわたしが言うと、あなたはバジルに向かって「強いな」と言った。強さは、ちゃんと戻ってくるものに宿るのだと思った。
夏が近づくと、ベランダの床が日差しで熱を持ち、夜にぬるくなった。窓を開けると、向かいのアパートの部屋からラジオが漏れてくる。そのラジオのパーソナリティはいつも、日付が変わる少し前に「きょうを閉じる音」を探す。二人で耳を澄ませると、冷蔵庫のモーターが止まる音、近所の猫の鳴き声、遠くの電車のブレーキ音。わたしたちは、自分たちの「きょうを閉じる音」を作ることにして、毎晩最後に、台所の電気を一緒に消した。その暗闇の中で、あなたが手を探して見つける。見つかった瞬間、小さな鈴が鳴るみたいに心が跳ねる。玄関に本当に小さな鈴をつけたのは、その少しあとだった。ドアが開くたび、ちりんと鳴って、家と外の境目を柔らかくしてくれた。
ある土曜の午後、カーテンの裾が長いことにようやく向き合って、ミシンのない家で手縫いをすることにした。針目は不揃いで、糸は何度もからまった。あなたは糸を通すのが苦手で、わたしは結び目をほどくのが得意だった。役割が自然に決まる。縫いながら、これからの七年について話した。旅行に行きたい場所、ベランダの土をもう一度入れ替える計画、青い皿が欠けたときのための金継ぎ教室。話していると、未来がとても具体的に感じられた。終わったカーテンは少しだけ短くなり、風に揺れる裾が軽くなった。窓辺に寄ると、外の街路樹の葉がひらひらと反射して、部屋が水の底みたいにゆれて見えた。
わたしたちは、写真をほとんど撮らなかった。代わりに、いくつかのものの位置を覚えた。青い皿は戸棚の右側から二段目。マグカップは白いのがあなたで、口元に薄い欠けのある生成りがわたし。バジルの苗は東側のプランター。玄関の鈴は戸の上から三センチ下。覚えることは、愛着に似ている。位置を変えるときは、理由を話し合った。それは少し面倒で、少し楽しい。「どうしてここがいいの?」ときくと、あなたは「ここに置くと、朝日が先に見つけてくれるから」と言った。わたしは「ここに置くと、帰ってきたときに真っ先に目に入るから」と言った。朝と夜のあいだで、同じものをちがう光で大切にする方法を、すこしずつ見つけた。
七年という言葉は、まだ遠くの景色のようだった。でも、遠くの景色は、朝の湯気の中にもいつも薄く見える。鍋の湯気が立ちのぼると、わたしたちは自然に黙って、その白いゆらぎを見つめた。湯気は形を持たないまま、でも確かにそこにいる。幸せも、そういうものかもしれない、とわたしは思った。掴もうとすると抜けていくけれど、そこにあることを肯うために、二人で同じ方向を見ている。そのことが、わたしたちのはじまりの形だった。
ある晩、瓶のラベルに「あとで読む」の下に、さらに小さく「七年目に開封」と書き足した。あなたは少し驚いて、「待てるかな」と言った。「待てるよ」とわたしが答えると、「じゃあ、七年目の朝にも、同じ湯気が見られますように」と、初日の言葉をもう一度繰り返した。窓の向こうで、街路樹の葉が風に揺れ、カーテンがふくらんだ。そのふくらみが、わたしたちの胸のふくらみと同じリズムだったから、わたしは笑って、あなたの肩に頭をのせた。青い皿は、テーブルの端で静かに光っていた。端にいるものは、落ちないように気をつける。気をつけることが、愛することの具体策だった。
その夜、天井の渦は昨日よりも少しだけ明るく見えた。窓から差し込む街灯の円が、おだやかに渦をなぞっている。わたしは指を伸ばし、届かない距離に指を泳がせた。「触れなくても、願いは叶うかな」とつぶやくと、あなたは「触れようとする分、近づく」と言った。わたしたちは、近づく練習をしている。ものの位置に、声の温度に、歩幅に、湯気の高さに。毎日のなかで少しずつ。練習はすでに本番で、本番はいつも優しかった。
そしてまた、朝が来る。ケトルの音がして、白い糸が立ちのぼり、青い皿の色が水のように静まる。カーテンが揺れて、春が部屋の隅々に入り込む。わたしたちは目を合わせて、なにか言葉を選ぶより先に、顔のしわの数で笑い合う。七年分のしわは、まだ遠い。でも、その遠さを楽しむ方法は知っている。ひとつの皿を真ん中に置き、半分こして、半分こという行為のなかに、全部こぼれないようにする工夫を続けること。わたしたちは、その工夫を始めたばかりだ。きっと、うまくいく。湯気がそう言っているみたいに、静かに立ちのぼっていた。
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