ショートショート集:子猫のフィロソフィー

@anki_igarashi

第1話船

散歩は晴れた日に限る。雨は濡れてしまうし、曇りだと顔の周りがなんだか不快だ。

春の暖かみを帯びた風が頬をなでる。猫にとっては嬉しい季節だ。


「あっ。ミイちゃんだ!」


「本当。ニャンちゃん今日もかわいいわねぇ。」


私を見る人間は、口々に好き勝手な名をつぶやく。

昔は、名前はまだない猫もいたらしい。なんて可哀そうなのだろう。

ミイちゃん、ニャンちゃん。その他にも、人間は私のことをさまざまな名称で呼ぶ。私を呼ぶ人間はみなすべからく笑顔である。名前の数とは、きっと愛されている証なのだろう。

餌をくれる人間が少ないのは残念だが、それについては目をつぶろう。


「あっ。ミケちゃん今日も来た!」


小さな一軒家に住む、人間の少女がパッと顔を輝かせる。この家に住む少女は、私を見つけると、いつも餌を持ってくる。いわば太客というやつだ。


「ちょっと待っててね...はい!どうぞ!」


今日もこの娘は、にこやかにせっせと皿に餌を盛る。彼女のくれる茶色い物体は、カリカリとしていて、そこまで美味ではないがこの際文句は言うまい。また、食べている間、少女は好き勝手に私を撫でまわすが、それも餌代として不問にしている。


「ほんとは家で飼いたいんだけどな~。」


彼女は思いがけず、私の逆鱗に触れるような言葉をつぶやいた。

飼う?冗談じゃない。私は誰のペットにもなり下がるつもりはない。誰にも媚びず、へりくだらず、その日その日を生きる流浪人。それが私だ。この少女は、そこのところが分かっていないようだ。


「あいたっ」


少女の手の甲を、ペシッとはたく。野生で生き抜いてきた私の猫パンチだ。餌に免じて、今日のところはこれくらいで許してやろう。

さて、食い終わったならば用はない。さっさと寝床へ帰るとしようか。


──翌日


「あっ。ミケちゃんだ。」


いつもの太客のところへ来た。だが、何かおかしい。この少女、少し大きくなったか?

餌もくれるし、食べてる間に撫でてくるところも変わらない。人間でいうところの成長期だろうか?

まあ、餌は問題なく運ばれてくるし、気にすることでもないだろう。


──翌日


「あっ。ミケちゃん。」


驚いた。たった1日で、また少し大きくなっている。人間の成長スピードは、猫に大きく劣ると思っていたが、これは考えを改めなくてはいけない。

だが、餌をくれるところは変わらない。相変わらず好き勝手に撫でまわすところも。

人間の成長する速さに、少し面食らってしまった。軽く眩暈もする。今日のところはさっさと帰ろう。


──翌日


「この子がミケちゃんね。」


私は、目の前にいる人間を見て、しばらく放心してしまった。少女は、もはや幼体ではなく成体、つまり完全に大人の姿になっているではないか。一体この少女に何が起こったというのだ。いくらなんでも、生き物の成長速度を超えている。

それでも餌は変わらずくれる。彼女を警戒しながら、恐る恐るカリカリとした物体を口に運ぶ。食べ始めると、彼女はいつものように私を撫でた。しかし、いつものワシワシとした乱暴な撫で方と違い、私を心地よくさせるような敬意に満ちた撫で方だった。


食べ終わったあと、寝床へとつながる帰路を進みながら考える。少女は、1日ずつ大きくなっていき、今日完全に少女ではなくなった。少しずつ変わったとはいえ、”あれ”を元と同じ少女といえるのだろうか?

私のことを知っており、私に餌を与える成体の彼女。同じ中身だとしても、外見が異なるだけで、こうも混乱してしまうとは。お腹がグルグルとなる。慣れない頭脳労働をしすぎたようだ。昨日から少し腹の調子が悪い。


そうだ。もっとシンプルに考えよう。少女の見た目が変わったのは問題ではない。本質的に重要なのは、私に餌を与えるかどうかなのだ。その点でいえば彼女はなんら変わりはない。大丈夫、大丈夫だ。明日もその点さえ変わらなければ大丈夫なのだ。


──翌日


「おや、ミケちゃんかい。」


私は愕然とした。その少女は成体を通り越して、老体となっていた。震える手つきで皿に餌を盛り、私の前へと運ぶ。頬張る私を見つめながら、腰のあたりを優しくも弱々しく撫でる。


もはや別人だ。あの少女は、理由は分からないが、別の人間へと変わってしまった。それがどうしたと、一蹴してしまえばそれまでの話なのだろう。昨日、自分で結論付けた通り、私に餌を与え、私の頭を撫でるかどうかが重要なのだ。彼女が醜く老いさらばえようが、私には関係ない。


しかし、なんだこの胸にぽっかりと穴があいたような感覚は。動揺とも、悲しみとも似ている。久しぶりに会った友猫が知らない猫になっていたような、それに似た寂しさがある。

そうだ。寂しさだ。餌を与え、頭を撫でるという彼女が持つ機能に変わりはない。しかし、幼い彼女が荒々しくも愛おしそうに私を撫でるときの表情や、通じているかも分からないのに話しかけてくる甲高い声が、私は存外気に入っていたのだ。


同じ役割を持っていたとしても、私は今の彼女に思い出を見出せない。私はあの子の所作を、機微を、細部に至るまで愛していたのだ。キュウッとお腹が締まる。上手く歩けない。これが喪失感というやつか。明日の彼女はどんな姿だろう。少なくとも老いた身体が若返ることはない。猫にしては珍しく、明日の事を憂鬱に思いながら家路を辿った。


──


「最近ミケちゃん来ないねぇ。」


「そうだねぇ。お引越しでもしたのかねぇ。」

孫のエリをあやしながら、私はつぶやく。つい1週間ほど前、エリは野良猫に餌をやっていたところ、手の甲をひっかかれてしまった。


「エリちゃん。もう怪我は平気かい?」


「うん!おばあちゃんも、お母さんも、ユカねえも、アヤねえも、代わりに餌やってくれてありがとう!可愛い猫ちゃんだったでしょ?」


「そうだねえ。野良だけど、おとなしくてイイ子だったねぇ。」

心にもない感想を口に出す。年を取ると、無駄に噓が上手くなる。孫を怪我させた畜生を、可愛いと思うのは難しかった。


「次にミケちゃんが来たらうちで飼うって約束、覚えてるよね?」


「もちろんだとも、次うちに遊びに来たらね。」

そう。うちに来れたら、だ。あの猫には、時間をかけて孫には言えないものを餌に混ぜ与えた。仮に生きていたとしてもうちまで来ることはないだろう。相当なバカ猫でない限り。


「は~。ミケちゃん早く来ないかなぁ。」


「…。もし、あと1週間しても来なかったら、ペットショップに行かないかい?」


「え?」


「野良猫にもね。野生で生きていくっていうポリシーがあるんだよ。きっと。だからエリちゃんにずっと餌をもらってたのに怪我させちゃったのが、申し訳なくなっちゃったのかもねえ。」


「う~ん。私、気にしてないのになぁ。」


「ミケちゃんもね、野良で生きていくのが幸せなのかもしれないよ。」


「そっかぁ。じゃあ、おばあちゃん。1週間たったらペットショップに行くの、約束ね!」


そういいながら、孫は可愛らしい小指を立てて、目の前に突き出す。うまくいった。これで小汚い野良猫を家に上げなくてすむ。

真実を知れば、孫は悲しむだろうか。だが、私にとっては、野良猫もペットショップの猫も変わらない。孫が喜ぶか否か、それが重要なのだ。他は一切関係ない。


船の本質が、名前ではなく、水面に浮くかどうかであるように。航海できなくなれば、古木を剝ぎ、新しい木材を継ぎ接げばよいのだ。たとえ、完成された船に、かつての面影がなくても。

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