迷宮牢獄〜私たちの夏は終わらない〜

ゆりんちゃん

序章:幽霊屋敷の曰く

 都会の喧騒が遠くに霞む、とある地方都市。その街を見下ろす丘の上に、一軒の屋敷があった。いつからか、人々が畏怖と好奇を込めて「迷宮屋敷」と呼ぶようになった巨大な廃墟だ。

 西洋と日本の建築様式が歪に混ざり合い、幾度も増改築を繰り返した異形の姿は、見る者の平衡感覚を狂わせる不協和音のようで、この土地の湿った夏の風景に、異物のように張り付いている。

 館の主・影山源次郎は、世間から隔絶された生活を送る風変わりな富豪だった。

 「人生とは出口を求めず、ただその複雑さを味わうために彷徨う迷宮である」――そう語る彼は、莫大な資産を投じて自らの住居を思考の実験場とし、絶え間なく造り変え続けた。

 上ってもどこにも辿り着かない階段、開ければ壁しかない扉、何度歩いても同じ場所に戻る廊下。訪れる者を試すかのような構造は、彼の歪んだ精神世界そのものだと、今では語られている。

 その忌まわしい呼び名が決定的になったのは、十数年前の蒸し暑い夏の日だった。

 陽炎が揺らめく昼下がり、一人の女が丘の上へと続く細い道を、ゆっくりと歩いて上っていった。きっちりとした上質なスーツに身を包み、まるで門を開けてもらうのが当然といった様子で屋敷の前に立つ。

 その顔には――感情を削ぎ落とした能面のような表情と、口元だけをわずかに引き上げた、完璧な笑顔が貼り付いていた。

 翌朝。会う約束をしていた影山源次郎の数少ない友人が館を訪れたが、門を叩いても応答はない。重く閉ざされた館は、鉛のような沈黙に包まれていた。

 不安を覚えた友人はすぐに警察へ通報する。駆け付けた警官が目にしたのは、“凄惨”という言葉すら生ぬるく感じられる光景だった。館の主、その妻と成人した息子、そして二人のメイドが――一夜にして無残な亡骸と化していたのだ。

 唯一の手がかりは、事件当日、屋敷の門に設置された監視カメラが記録していた、あの女の姿だけだった。

 しかも、女が屋敷に入ってから事件発覚までの間、他の人物の出入りは一切確認されていない。この事実から、警察は彼女を最有力容疑者とみなすことになった。

 県警は大規模な捜査本部を設置したが、迷宮のような屋敷構造は現場検証を著しく困難にし、監視カメラの映像以外に、犯人へ直結する物証はほとんど得られなかった。

 進展がないまま、やがて警察は映像をメディアに公開する。日本中のテレビや週刊誌が連日その映像を流した。

 画面の中で、女は深々と頭を下げている。だが、その笑顔は微動だにせず、目元には一切の笑みがなく、口角だけが奇妙な弧を描いていた。――まるで仮面のような笑顔。

 その異様さに加え、単独犯では不可能と思えるほど多様な殺害方法の組み合わせが、事件を一層センセーショナルにした。世間では女の正体を巡って、さまざまな憶測が飛び交った。

 しかし、彼女の身元に繋がる有力な情報は一つとして寄せられず、事件は、この館の名が予言していたかのように「迷宮入り」となった。

 その後、影山家の複雑な相続問題が浮上し、館は取り壊されることも、誰かに管理されることもなく、法的に塩漬けのまま放置された。

 歳月は人の記憶と建物を等しく蝕み、錆びつかせ、風化させていく。やがて、この屋敷には新たな噂が生まれた。

 ――二階の書斎から聞こえる、自らの首を掻きむしるような苦悶の呻き声をあげ続ける主人。

 ――浴室で、全身ずぶ濡れのまま動き回る妻。

 ――二階の廊下を、手足を無残に引き裂かれた姿で苛立たしげに徘徊する成人した息子。

 ――胸を刺され、メイド服のエプロンを赤く染めたメイドが、玄関ホールと階段を巡回する。

 ――頭を鈍器で砕かれたメイドが、割れた頭部を皿に載せ、台所から食堂へと虚ろな眼差しで運び続ける。

 惨殺された一家の無念と従者の魂が、今もなお、あの複雑怪奇な迷宮に囚われているのだと――。

 こうして影山源次郎が築き上げた歪んだ館は、その役目を終えてなお、本物の「幽霊屋敷」として、街の記憶に深く根を張り続けている。


 そして――それは今も、訪れるべき人間を待っている。

 絶望という名の迷宮の入り口で、次なる遭難者が、その扉を叩くのを。

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