三題噺(アイドル × テニスボール × 麦茶)

まろ

一話完結

 炎天下の中、バイト先の学習塾がある駅前からアパートまでの徒歩二十分は中々にきつかった。駅前はいつにない大混雑でテレビの中継車もあった。なにかイベントでもあるのだろうか? ともかく普段なら五分で着くところを人の間を縫うように歩いて四倍も時間をかけて帰ってきたのだから暑さも四倍といったところだ。昨冬にコロナに罹ったけれど、あの時は死ぬかと思った。軽症の部類だったけれど、全身が燃えるように発熱したあれに比べればどうということはないはず……嘘だ。やっぱり暑いものは暑い。


 踏むたびに金属音が鳴り響く安アパートの階段を残った気力と根性であがり、部屋に倒れるようにあがりこむと外気以上の熱気に包まれた。暑い、このままでは死ぬ。


 本当に最後の気力を振り絞って窓を開け放って扇風機の風量を最大すると再び倒れ込んだ。貧乏学生の二人暮らしにエアコンなんてものは夢のまた夢である。それにしても喉が渇いた。


 大学の友人であり同居人の夏菜子がいれば、古典的なアレ『み、水を……』をやってみたいのだけれど生憎外出中(おそらく昼ごはんの買い物)で自ら喉の乾きを癒さなければならない。面倒くさいが仕方ない、冷蔵庫から飲み物をとってこようと首をもたげると座卓の上にグラスが二つ置かれているのが目に入った。上半分は青、下半分は白の半透明の江戸切子風の小洒落たグラスには濃い茶色い液体が六分目ほど注がれてる。


「《麦茶》じゃないか!」


 夏菜子は気が利く子だ。私の帰宅に合わせて準備してくれていたのだろう。それがあの混雑で私が遅れたから待ちきれずに出かけてしまったんだ。ごめんね、お先にいただきます。グイっと一気に飲み干すが……もの足りない。そして更にもう一杯。私は冷蔵庫に行くわずかな手間を惜しんで彼女の分まで手をつけてしまった。後で淹れてあげるから許して!


 喉を潤した私は横になってリモコンでテレビを点ける。昼のニュースが流れていた。ここ最近何度となく繰り返し放送されている先日行われたテニスの決勝のシーンだ。画面手前の選手がサーブの構えからラケットを振りかざすと爆発音にも似た大きな音とともに《テニスボール》が画面奥のコートに突き刺さると相手選手はその場から一步も動けずにボールを見送った。勝ったのは日本人選手で神戸麻美という選手だ。私はスポーツに疎いので凄さはよくわからないけれど、大変な偉業らしい。次いで画面が切り替わると見覚えのある風景が映し出された。先程通ってきた駅前だ。


「神戸選手の凱旋パレードが始まりました――」


 大歓声の中、レポーターが半ば叫ぶような声で実況を始めた。なるほど駅前の中継車はこれのためだったのか。オープンカーから笑顔で手を振る神戸麻美が映った。それに応えるように観衆も手を振り返している。そういえば夏菜子が「神戸麻美ってこの街出身らしいよ」と言っていた気がする。大学にほど近い格安物件があるということで、この地を選んだ私たちは居住歴一年のよそ者だからあまり関心がないけれど、地元民からすれば《アイドル》、否、それ以上の存在なのだろう。駅前の混雑ぶりは地元住民全員が集結したかのようだった。


 しかし、暑い。喋れば声が揺れるほどに扇風機を回しているのに一向に汗が引かない。むしろ増えてるくらいに噴き出している。


「ただいまぁ」


 振り返るとエコバッグをぶら下げた夏菜子が帰ってきていた。なんだか不機嫌そうである。それはそうよね。この暑さじゃ。


「おかえり、ごめんね、麦茶先に飲んじゃった。今淹れるから」

「麦茶? なくなったはずだから今、買ってきたんだけど……」


 怪訝そうに夏菜子は尋ねると同時に目を見開いた。


「それ飲んじゃったの!?」


 視線の先には空になった二つのグラス。そんなにショックだった? そうだよね……すぐ飲みたかったよね。この暑さだもの。


「それ麦茶じゃない!」

「えっ!?」

「麺つゆ!! 今日のお昼はおソバにしようかと思って、つゆだけ先に用意してたの」


 なるほど喉が乾くわけだ。私は何を隠そうコロナの後遺症で味覚と臭覚は麻痺してたいるのだ。味なんてまるでわからない。まあ飲んでしまったものは仕方ないし、死ぬほどの量でもないから大丈夫だろう。


「はい、麦茶。スーパーの特売品で屋外に置いてあったから温いけど、氷で我慢して」


 本物の麦茶が出てきた。鼻は利かないけど一応匂いを嗅いでみる。やっぱり無臭だ。


「お昼は天ざるにしようと思ってたんだけど、ただのざる蕎麦で我慢してね。いつもの天ぷら屋さんがやってなくて……スーパーの天ぷらは好きじゃなかったでしょ?」


 麦茶を片手に夏菜子はガスコンロに火を着けて蕎麦を茹でる準備をする。


「うんうん。スーパーの天ぷらは油が悪くて気持ち悪くなる」


 味覚がなくても胃もたれはするのだ。


「でも、天ぷら屋さんいつも土曜日はやってるよね?」

「そうそう、いつもやってるのになんでだろうと思ってシャッターに張り紙してあって見たらね――」


 夏菜子も相当喉が乾いていたのか氷まで頬張りながら続けた。


「――ほんりつはへいきゅうび」


 おそらく『本日は定休日』と言ってる。でも、おかしいぞ。土曜日はいつもやってるんだから定休日ってことないはずなんだけど、私の聞き間違えか?


「ごめん、今なんて言った?」


 訊き返すと、氷を飲み込みテニスの素振りをして言った。


「だからぁ、『本日は庭球日』だってさ……」


 パレードに行ったんかーい!

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三題噺(アイドル × テニスボール × 麦茶) まろ @nekomaro2222

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