第9話 幻術使い
咄嗟に飛び退いた樒は、先ほどまで自分が立っていた場所に出現した亀裂を見て、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(噂には聞いていたがこれほどまでとは)
妖狐とは違い鋭い爪もなければ、鬼のような
その中でも〝
(さすがに私ひとりじゃ分が悪い)
かつて、ある者が人間相手に非道な実験を行った。目隠しした被験者の指先に刃物を押し当て、ごく軽い刺激と血が流れる音を聞かせ続けた。実際には傷をつけていないも関わらず、「体内の血液を三分の一を失った」と告げられた被験体は絶命したという。
またある盲目の被験者は熱した鉄の棒を足に押し当てられた。肌が少し赤みを帯びる程度でも、周囲は大火傷を負った者のように大袈裟に心配し、治療を施した。翌日、被験者の足には無惨な火傷の跡が浮かび上がっていた。
たかが幻術とはいえ、〝思い込み〟は神経を焼き、細胞を壊死させ、時には命を奪う毒となる。玉三郎が操る毒は幻術に耐性がある樒でも、一度かかれば抗うことは不可能だ。
「ほほう。やはり、お前が娘御に幻術をかけた者か」
「それがなにか?」
樒は隙を伺うために話に乗ることにした。玉三郎の次の一手を見極めるために距離をおくのは忘れない。
「いやいや、馬鹿にしているわけではない。我が息子らが手をこまねくほどの術師など、そうはおらんからのぅ」
玉三郎は顎に手を置くとじろじろと樒を観察しだした。酒のせいか熱っぽい視線は下品で不躾だ。違う意味で樒の背を汗が伝う。
「妖狐でも、家族になってしまえば仲間よ。どうじゃ? 我が娘と
「あんたの娘と婚姻を結ぶぐらいなら、そこらへんにいる野良狸に愛を囁いた方がマシさ」
盃を交わし、子どもらを伴侶として番わせることで一族の規模を広めていくのが妖狸の
樒が生涯仕える主人は真宵ただひとりと心に定めている。彼を裏切ってまで、妖狸の嫁などごめん
樒が鼻で一蹴すれば、玉三郎は肉のついた手で顔を覆い、しくしくと泣くふりをした。父よりも歳上の大妖の情けない姿に、樒は白んだ目を向けた。
「儂ら、愛らしい妖狸と野良狸を同列にするなど、目が腐っておる」
「どこが可愛らしいだ。
「なんとも口が悪い。儂らは愛らしいじゃろう? 見よ! このぷりてぃなぼでぃを!」
くねくねと身体を動かしているが水風船が揺れているようにしか見えない。樒は
「あの
「本人の意思関係なく連れ去るほうがどうかしていると思うけどね」
「それは儂が悪くてのう」
一歩、玉三郎は歩を進めた。
「伊紗那はもっと早くに救いたいと叫んでおったが、人間の娘を嫁にしても妖狸に利は一つもない。奴ら人間は集団では面倒だが、個々を見ればなんの力も持たぬ弱者! 可愛い末っ子には、ふさわしい嫁を与えてやりたいと思うのが親心というもの」
三歩、樒が下がると今度は三歩近づいてきた。樒に悟られないようにか、その足どりはゆっくりで、玉三郎は喋り続ける。
「しかし、
また玉三郎が近づくので、樒はその分、離れて一定の距離を保つ。
(おおよそ、
己と玉三郎の距離を測り、思考する。玉三郎はどうにか樒へ近づこうと躍起になっているように見える。このことから考えつくのは現実に作用する幻術は、使える範囲が非常に狭い。
隠神刑部狸とはいえ幻術しか戦う
距離を詰められれば、樒の負けは確定だ。
だから、決して近づかせるわけにはいかない。
かといって、樒に玉三郎を
「ちょこまかと小賢しい」
頭に血が上ったのか、酒のせいか。顔を真っ赤にしながら玉三郎は呻き声をもらした。肥えた手が樒へ伸ばされ、
「——ぎゃ!!」
突如、地面へ伏せた。
「——甘いですね。これがかの〝隠神刑部狸〟だなんて、がっかりです」
仰々しいため息と共に姿を現した
「妖狐がもう一匹?! いつから……!!」
「あんたたちを真似して、私たちも協力したんだよ」
どれほど完璧に化けても隠神刑部狸の目は誤魔化すことはできないと踏んだふたりは、幻弥の存在を隠すことに力を入れた。
幻術の連携は妖狸の専売特許で、他は使えないと思い込んでいたが
「くそう! 返せっ!!」
怒りに吠える玉三郎を中心に無数のかまいたちが空を切り裂き、炎が燃え広がり、
「樒くん! 閉じ込めましょう!」
幻弥の意図を察した樒は妖力を操作する。二つの異なる妖力は混じり合い、膨らみ、やがて世界を歪ませた。歪む世界は玉三郎を閉じ込めるように覆っていく。遮断され、かまいたちも炎も稲妻もふたりの元には届かない。
しばらくして、世界は裏返り、玉三郎の姿は消えていた。
◆
「術師がふたりでも効果は凄まじいですね」
長い廊下を走りながら
「少しの時間でも隠神刑部狸を閉じ込めれたのはすごいことですよ」
「隠神刑部狸一匹ならもうしばらくあの空間を維持できるが、他の化け狸が駆けつけたらすぐさま解除させられるだろう。私たちが逃げ切るまで戻ってこないことを祈るしかないね」
「あれ、花嫁
「今は逃げ切るのが最善の選択だ」
悔しそうに眉間を引き絞りながら樒は口を開く。
「イサナという子どもが鈴音ちゃんを気に入っているうちは、奴らは鈴音ちゃんに害を与えるつもりはない。他の化け狸なら私たちだけでどうにかできるが、隠神刑部狸が現れたら私たちは勝てない」
「なら、真宵さまが脱出してから、増援を率いて攻め入るしかないですね」
「増援もすぐ見込めるかどうか怪しいけど」
妖狐の里の位置を鬼族である蘭丸に伝えることはできない。状況報告のため、今住む屋敷に定期的に訪れる妖狐に事情を説明し、その妖狐が里へ事態を伝えてくれればいいのだが、それがいつになるか樒も分からない。
予定では、もうじき
「鈴音ちゃんを安全に取り戻すためには、まずはこちらの体制を整えないと」
「鬼にも協力させませんか? こうなったのは、彼らがきちんと仕事をしなかったからですよね」
「鬼族は出払っていて、それは無理だ。それに接近戦が得意な鬼は犬神刑部狸と相性が悪すぎる。奴に対抗できるのは真宵しかいない」
それか玉藻か。
けれど、いくら息子の想い人とはいえ、彼女は重い腰をあげてまでこようとはしないはずだ。
「真宵、それは鈴音ちゃんじゃない」
樒は幻弥が抱える一升枡を見つめた。その小さな箱庭で、幸せそうにゆるんだ顔をする主人を——。
「……いい加減、気付いてくれ!」
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