黄昏の歪み

キートン

入口

 黄昏は、いつもより濃いオレンジと紫のグラデーションで西の空を染めていた。

 

 退社のラッシュはとっくに過ぎ、駅前の商店街には妙な静けさが張りつめている。

 

 埃っぽい空気が喉にまとわりつく。

 

 今日は特に変だ。電飾看板の「ラーメン」の文字が、まるで溶けたチーズのように垂れ下がっているように見える。

 

 気のせいか。目をこすっても、歪みは消えない。


 背筋に冷たいものが走った。


 違和感の正体に気づいた。人だ。人影がまったくない。さっきまでちらほらいたサラリーマンも、帰宅途中の学生も、どこへ消えた? 自分の靴音だけが、舗装された道に不自然に反響する。

 

 ふと下を見ると、自分の影が異常に長く、細く、道路の向こうのビル壁まで延びている。まるで自分だけが、この空間で異物扱いされているようだ。


 息が浅くなる……

 

 早く家に帰りたい……


 足早に角を曲がろうとした時、眼鏡店の大きなガラス戸が視界に入った。

そこに映った自分の姿。いつも通りのスーツ姿、少し乱れた髪。しかし、その動きが…おかしい。自分が顔を上げた。

 

 ガラスの中の自分は、0.5秒遅れて、ぎこちなく顎を上げた。まるで古いフィルムがコマ落ちしているように。


「…ッ!」


 足がすくんだ。心臓が肋骨を打ちつける。

反射的に、そのガラスの像から目を背け、隣の細い路地へと駆け込んだ。

 

 暗がりの中を、ただ前へ、前へ。

 

 息が肺を焼く。ようやく明るい場所に出た。視界が開けた瞬間、全身の血が引く感覚があった。


 目の前にあるのは、さっき逃げ出してきたはずの商店街のアーケードだった。しかし、それは記憶の中のものとは似ても似つかなかった。

 鉄骨の枠組みが歪み、ねじれ、まるで巨大な生き物の骨格が暴力的に地面に押し込まれたかのようだ。

 

 店舗の看板は意味をなさない色の塊と化し、ガラスは割れ、内部は底知れぬ闇をたたえている。アーケードの天井は、物理法則を嘲笑うように、非ユークリッド的な角度で折れ曲がり、遠くの歪んだビル群へと延びている。空は、先ほどの黄昏の色さえ失い、不気味な鉛色に沈んでいた。


「…ここは…どこ…?」


 声は掠れて、すぐに闇に吸い込まれた。

足元に目を落とす。アスファルトの上に、二本の影が長く伸びている。

 

 一本は、夕日を受けて伸びる自分のもの。そして、もう一本―それは自分の影と寸分違わず、しかし、ほんのわずか、ほんの数センチ、自分の真後ろに立っているかのような角度で……


 公園のベンチに腰を下ろし、自動販売機で買った缶コーヒーの温かさがやっと現実をかすかに呼び戻してくれた。

 

 あれから必死で走り、見知らぬ路地をくぐり抜け、やっとたどり着いたこの場所。街灯の明かりが、普通に点っている。遠くに車の走行音も聞こえる。どうやら…戻ってきたらしい。


「はあ…」


 深いため息が漏れる。あれは疲れのせいだったのか? 見間違い? 悪夢?。


 そう自分に言い聞かせながら、ふと自分のスマホを取り出した。画面をスリープから起こす。ロック画面には、数日前に撮った海辺の写真が映っている。

 

 ホッと胸を撫で下ろし、画面をタップして解除しようとした指が、空中で止まった


 ロック画面の写真。


 そこに写る自分の姿の、首の角度が…おかしい。現実の自分が今、下を向いているのに、画面の中の自分は、カメラのレンズを―いや、画面の外の、こちらの自分を、まっすぐに見つめ返している。

 

 そして、その口元が、写真を撮った時には絶対になかった、歪んだ、薄気味悪い笑みを浮かべていた――


 缶コーヒーがコンクリートに落ち、中身が黒い染みを広げた。

 

 冷たい夜風が、首筋を這う。公園の外は、確かに元通りの街の喧騒が聞こえている。帰れたのだろうか? それとも――









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