【ランジェリー業界お仕事恋愛短編小説】アンダーワイヤーの建築学 ~構造計算できない恋の方程式~
藍埜佑(あいのたすく)
序章:挫折した建築家と未知なる女の園
建築とは、重力との闘いの歴史だ。
石を積み上げ、梁を渡し、アーチを架ける。その全ての根底にあるのは、物理法則という絶対的な神の摂理。そして、その摂理を数式という人間の言語に翻訳するのが、我々建築家の仕事だ。
俺、織原圭祐は、その厳格で美しいロジックの世界の信奉者だった。……信奉者であり続けたかった。
俺が建築に興味を持ったのは、8歳の時だった。父親に連れられて見学した東京駅の復元工事現場で、レンガ造りのアーチ構造に魅了されたのが始まりだった。一つ一つは小さなレンガが、アーチという形に組み上げられることで、何十トンもの荷重に耐える。その不思議さに、子供心ながら感動したのを覚えている。
「圭祐、見てごらん。あのアーチには鉄筋も接着剤も使われていない。でも100年以上、地震にも戦災にも耐えてきたんだ」
父親の言葉が、俺の人生を決定づけた。形と力の美しい関係。それを理解し、設計することが俺の天職だと確信した瞬間だった。
大学院では、構造力学の権威である高橋教授の下で、斜張橋の新しい計算手法を研究していた。風荷重、地震荷重、そして時間経過による材料劣化まで考慮した複雑な微分方程式を解くことに、俺は純粋な喜びを感じていた。
特に興味深かったのは、本州四国連絡橋群の設計思想だった。明石海峡大橋の主塔間距離1991メートル、主ケーブルの直径1.12メートル。これらの数値は、風洞実験と構造解析を重ねて導き出された最適解だった。美しい曲線を描く橋の姿は、実は高度な数学の結晶だったのだ。
数式が美しく収束していく瞬間、それは俺にとって芸術そのものだった。フックの法則からナビエ・ストークス方程式まで、物理法則が織りなす数学的調和に、俺は魂を奪われていた。
だが、俺の緻密な構造計算と情熱を注ぎ込んだ美術館の設計コンペ案は、昨日、紙屑になった。
「君の建築には心がない」
それが審査員の評価だった。完璧な構造計算、最適化された材料配置、そして経済性まで考慮した設計。俺には理解できなかった。建築に必要なのは、論理と機能性ではないのか。
俺のコンペ案は、現代美術を展示するための理想的な空間を目指したものだった。無柱空間を実現するための鉄骨トラス構造、自然光を最大限活用するためのトップライト、地震時の安全性を確保するための免震システム。全てが論理的に設計されていた。
しかし、審査員長の建築家、黒川修一氏の講評は厳しかった。
「技術的には申し分ない。しかし、この建物には人間の温もりが感じられない。美術館は、単なる展示装置ではない。人々の心を豊かにする場でなければならない」
俺は、自分のデスクで呆然としていた。CADソフトの画面に映る自分の設計図を見つめながら、何が足りなかったのかを考え続けた。構造的には完璧なはずなのに、なぜ「心がない」と言われるのか。
そんな時、実家から電話がかかってきた。
「圭祐、頼む。お前の力で、うちの工場を助けてくれ」
受話器の向こうの父親の絞り出すような声。俺は製図用のペンを静かに置いた。創業八十年を誇る織原レース工業は、グローバル化の波に飲み込まれ、存続の危機に瀕していた。
織原レース工業の歴史は、日本の繊維産業の縮図でもあった。戦後復興期から高度経済成長期にかけて、日本製レースは品質の高さで世界的に評価されていた。特に1960年代から80年代にかけては、ヨーロッパの高級ブランドからも注文が殺到し、「メイド・イン・ジャパン」のレースは世界最高峰の代名詞だった。
しかし、1990年代に入ると状況は一変した。中国やベトナムをはじめとする東南アジア諸国の安価な製品が市場を席巻し、日本の繊維産業は壊滅的な打撃を受けた。人件費の差は圧倒的で、同品質のレースが10分の1の価格で製造される時代になった。
職人の高齢化も深刻だった。レース編みの技術は、機械化が困難な部分が多く、熟練工の勘と技術に依存していた。しかし、若い世代は繊維産業を敬遠し、技術の継承が困難になっていた。
俺の夢もまた、重力に逆らえず崩れ落ちたのだ。
* * *
こうして俺は、建築家の道を断念し、最大の取引先である大手下着メーカー「Amour et Fleur(アムール・エ・フルール)」へコネで入社することになった。
「アムール・エ・フルール」は、フランス語で「愛と花」を意味する。1952年に創業されたこの会社は、戦後復興期に女性の社会進出を支えるランジェリーブランドとして出発し、今や年商500億円を誇る業界のトップランナーだった。
創業者の薔薇田咲子(現マダム・ローズ)は、戦後の焼け野原で「女性が美しくあることは、日本復興の原動力になる」という信念の下、一人でこの会社を立ち上げた伝説的な女性だった。当時、下着は実用一辺倒だったが、彼女は「機能美と装飾美の両立」を掲げ、日本の女性下着文化を革新した。
同社の技術力は業界でも群を抜いていた。1970年代に開発した「3Dカップ成型技術」、1980年代の「マイクロファイバー素材の応用」、1990年代の「人体工学に基づくパターン設計」。常に時代の最先端を走り続けていた。
俺が配属されたのは、東京・青山の本社ビル最上階にある、社内でもエリート部署とされるランジェリーのデザイン第一課。ここは、会社の売上の6割を担う主力商品を生み出す場所だった。
フロアに一歩足を踏み入れた瞬間、俺は異世界に迷い込んだかのような感覚に襲われた。
壁一面のパステルカラーのカラースキーム。ローズピンク、ラベンダー、クリーム色、そして微妙に異なる数十種類の白。これらの色彩は、単なる装飾ではなく、女性の肌色や心理に与える影響まで考慮して選ばれていた。
色彩心理学によれば、ピンクは女性ホルモンの分泌を促進し、ラベンダーはリラックス効果をもたらす。クリーム色は肌を美しく見せ、白は清潔感と上品さを演出する。デザイン第一課のインテリアは、科学的根拠に基づいて設計されていたのだ。
色とりどりの繊細なレースやリボンのサンプルが、まるで標本のように整然と並んでいる。シャンティイ・レース、アランソン・レース、ギピュール・レース……それぞれに独特の編み方と美学があった。マネキンが纏う官能的なランジェリーは、俺が今まで接してきたコンクリートや鉄骨の世界とは対極にある美の世界だった。
何より俺を圧倒したのは、その空気そのものだった。甘い香水の匂い――シャネルのNo.5、ディオールのミス・ディオール、エルメスのカレーシュなどの高級フレグランスが混じり合った芳醇な香り。そして、自分以外の生物が全て女性という圧倒的なアウェー感。
キラキラしたネイルをした指先が踊り、甲高い笑い声が響く。「昨日のドラマ見た?」「この口紅の色、どう思う?」「今度のデートでどのワンピース着ようかしら」……俺の存在など誰も気にしていない。
俺は建築学科の男子学生特有の、実用一辺倒のスーツと革靴で身を固めていた。紺色の地味なスーツ、黒い革靴、白いワイシャツ。場違い感が全身から滲み出ていた。
「本日付でこちらに配属になりました、織原圭祐です。よろしくお願いします」
俺の挨拶は、フロアの賑やかなおしゃべりの中に虚しく吸い込まれて消えた。数人の女性が振り返ったが、すぐに興味を失ったように視線を逸らした。
その時、フロアの一番奥からハイヒールの音を響かせ、一人の女性がこちらに歩いてきた。
ココッ、ココッ、ココッ……
その足音は、まるでメトロノームのように規則正しく、フロア全体のリズムを支配していた。彼女が歩くだけで、周囲の女性たちの姿勢が自然と正される。明らかに、この空間のヒエラルキーの頂点に立つ存在だった。
姫野莉奈。
それが俺の教育係であり、そして、これから俺が戦うことになるこの「女の園」の絶対的な女王の名前だった。
身長は165センチほど。シャネルのツイードジャケットを着こなし、プラチナブロンドのボブカットが揺れる。年齢は俺より少し上の28歳くらいだろうか。だが、その存在感は年齢を超越していた。
彼女のファッションセンスは完璧だった。シャネルのツイードジャケットは、1950年代にココ・シャネルが開発した革命的なデザインで、女性の社会進出を象徴する服装として知られている。硬すぎず柔らかすぎない絶妙な質感が、彼女の知性と女性らしさを同時に表現していた。
プラチナブロンドの髪色は、単なるおしゃれではなく、彼女の強い意志を表していた。日本女性が金髪にするには相当な覚悟が必要で、保守的な企業文化の中でそれを貫くには、確固たる自信と実力が不可欠だった。
「あなたが織原くん? レース屋さんの坊っちゃんでしょ」
彼女は俺を値踏みするように一瞥すると、冷たく言い放った。その視線は、俺の学歴も経歴も全て見透かしているようだった。プロフェッショナルの目で、俺という人間を数秒で査定していた。
「お遊びなら他所でやってくれる? ここは戦場なの。わかる?」
戦場。確かに、この業界は戦場だった。ファッション業界の競争は熾烈で、特にランジェリー市場は技術革新のスピードが早い。女性の体型やライフスタイルは日々変化し、ファッショントレンドは季節ごとに激変する。
ランジェリー業界の商品サイクルは、他の衣料品よりもはるかに短い。春夏コレクション、秋冬コレクションに加え、バレンタイン限定、ホワイトデー限定、クリスマス限定など、年間十数回の新商品投入が必要だった。3か月後の消費者心理を読み、6か月先の商品企画を立て、1年後の売上を予測する。それは、俺が学んできた構造計算よりも、はるかに複雑で不確実な世界だった。
莉奈の言葉の背後には、この業界で生き抜いてきた者だけが知る厳しさがあった。彼女自身、この地位に就くまでに、どれほど多くの困難を乗り越えてきたのだろうか。
* * *
最初の企画会議で、事件は起きた。
会議室には、莉奈をはじめとする女性デザイナーたちが集まっていた。デザイン第一課の主要メンバー8人。全員が業界経験10年以上のベテランで、それぞれが独自の専門分野を持っていた。
壁には次期コレクションのコンセプトボードが貼られ、色とりどりの生地サンプルとレースが散らばっている。ムードボード、カラーパレット、テクスチャーサンプル……デザインプロセスの全段階が視覚化されていた。
莉奈が提案する新しいコレクションのテーマは、「マリー・アントワネットの密やかな寝室」。
「18世紀ロココ様式のエレガンスを現代に蘇らせるの。ここのリボンの素材はシルクのモアレで。色はもちろん、ローズ・ポンパドゥールよ」
モアレとは、絹織物に特殊な圧力をかけて波状の文様を施したもので、18世紀フランスの宮廷で愛用された高級素材だった。光の角度によって表情を変える独特の光沢が、当時の貴族女性を魅了した。
ローズ・ポンパドゥールは、ルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人が愛したとされる、淡いピンク色の名称。セーヴル磁器の代表的な色としても知られている。莉奈の専門知識は膨大で、ファッション史から素材工学まで、あらゆる分野に精通していた。
「カップの形状は、18世紀のコルセットを現代風にアレンジして。バスト下部のサポートを強化しつつ、デコルテを美しく見せるカッティングライン」
コルセットの歴史は、女性の美意識と社会的地位の変遷を表している。18世紀のコルセットは、極端に細いウエストラインを作るために、時として健康を害するほど締め付けていた。しかし、同時に美しい姿勢を保ち、ドレスのシルエットを完璧に演出する機能も持っていた。
現代のブラジャーは、この歴史的な美学と機能性を、健康面への配慮と両立させる技術が求められる。莉奈の提案は、まさにその挑戦だった。
会議室では「可愛い!」という甲高い歓声と感覚的な言葉だけが飛び交っている。「このレースの透け感が絶妙」「カップの丸みがフェミニン」「ストラップの細さが上品」……
デザイナーたちの会話は、俺には暗号のように聞こえた。「透け感」「フェミニン」「上品」といった言葉に、具体的な数値や基準があるのだろうか。建築の世界なら、「美しい」という感覚的な表現も、黄金比や構造的合理性という客観的指標で説明できる。
俺は一人、その会話についていけず、黙々と自分の専門書をめくっていた。『建築構造設計指針』『材料力学ハンドブック』『構造解析のための有限要素法』。場違いな本ばかりだ。
そして、おもむろに手を挙げた。
「あの、一つよろしいでしょうか」
全ての視線が俺に集中する。莉奈の眉間に皺が寄った。会議室の空気が、一瞬で張り詰めた。
「そのデザインの場合、アンダーワイヤーの支点にかかる応力が、計算上、許容範囲を超える可能性があります」
俺は持参したノートパソコンを開き、CADソフトで作成した応力分布図を見せた。有限要素法による解析結果で、赤い部分が応力集中箇所、黄色が警戒域、緑が安全域。完璧な色分けマップだった。
「ここに補助的なボーンを一本追加し、荷重を分散させるべきではないかと思います。フォン・ミーゼス応力で評価すると、この部分で降伏強度の90%に達しています」
フォン・ミーゼス応力とは、複雑な応力状態を単一の値で評価する指標で、材料の破壊予測に用いられる。建築構造設計では常識的な概念だが、ファッション業界では聞いたことのない専門用語だろう。
俺のあまりにも無粋な発言に、会議室は一瞬にして凍りついた。
デザイナーの一人、企画課の田村さんが苦笑いを浮かべた。
「え、何それ?ブラジャーって橋じゃないのよ?」
別の女性、パタンナーの佐藤さんが小声で囁く。
「構造計算って、建築現場でやるものじゃないの?」
「そもそも、フォン・ミーゼス応力って何?聞いたことないわ」
女性たちの戸惑いの声が聞こえる。彼女たちにとって、俺の発言は意味不明な専門用語の羅列でしかなかった。
莉奈は、怒りを通り越して心底呆れたという顔で俺を見つめていた。
「構造計算?あなた、自分が今何の話をしているかわかってる?ここは橋を架ける現場じゃないのよ」
彼女の声には、冷たい軽蔑が込められていた。長年この業界で培ってきた感性とセンスを、無機質な数値で否定されたと感じたのだろう。
「ランジェリーは、女性の心と体を美しく包むもの。数式で作るものじゃないの」
その瞬間、俺は悟った。
俺のロジックは、彼女の感性の前では全くの無力だった。
俺が向き合うことになったのは、重力よりもずっと複雑で厄介な、応力計算のできない曲線――女心という名の未知なる構造物だったのだ。
会議は、俺の提案を完全に無視して進行した。しかし、その時の莉奈の表情には、わずかな困惑が混じっていたことを、俺は見逃さなかった。彼女の中で、何かが引っかかったのかもしれない。
俺は、その小さな変化に希望を見出していた。
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