第2話 雪国の后は外の世界を開く─②

 翌朝、フィリは廊下のざわめきで目が覚めた。

 日はとうに昇りきっている。湯浴みがしたいと、寝台から身体を起こした。

「フィリ様、お目覚めでございましょうか。お目覚めでしたら扉を二度ほど叩いて下さい」

 言われた通り、二回叩いた。昨日の今日であっても、まだ会話を解禁しないらしい。

「昨夜はフィリ様の手厚い看病、心から感謝を申し上げます。后にこのようなお手を煩わせてしまい……たいへん申し訳ございません」

「構わない。起きられるようになったんだな」

 あえて言葉をかけてみると、扉越しに息が止まっているのが判る。

「……会話はできませんので、これは独り言です。ほかの兵士たちもフィリ様へ頭を垂れ、何度も感謝を申しておりました。お顔を拝見できませんので湯浴みの手伝いはできませんが、一時間ほどで朝餉の準備をしてこちらへ届けさせます。さらに一時間後、宿を出発いたします」

 まさかファルーハ王国に着いたら湯浴みの手伝いをするつもりか、と顔が引きつる。

 一人で過ごす時間をたっぷりと湯浴みに使い、部屋に用意された朝餉をすべて平らげた。食べ慣れない果実はファルーハ王国のものかもしれない。甘酸っぱくて、疲れた身体に染みた。

 朝食後、廊下がまたもや騒がしい。

「行けません! ヴァ……そちらはっ…………!」

 喧騒は去ったが、扉の前には誰かがいる。

「第三王子の后となる者か?」

 返事の代わりに、扉を二回叩いた。同じく、向こうからも二回音がする。秘密の会話をしているようだった。

 声の主はよく通り、けれど重圧感はない。どちらかというと声変わりしたての青年のような声だ。

「アイラと兵士たちが世話になったようだ。どうか、扉を少しだけ開けてほしい。渡したいものがある」

 アイラの側にいても止められない相手となると、逆らってはいけないと判断した。

 隙間から浅黒い手が見えた。手にはシルクの布を持っている。

「ヴェールの代わりだ。時間がなく、すぐには調達できなかった。ファルーハ王国は暑い国だが、薄い生地でできているから熱こもることはないだろう」

 お礼の代わりに、またもや扉を叩く。すると彼も同じ仕草をする。

「俺は前の馬車に乗り、お前を守ろう」

 男は立ち去った。隙間から覗くと、アイラだけがいる。

 目が合うと、アイラは勢いよく頭を垂れた。

「顔を上げてくれ。それより、シルクの布をつけてくれないか? 僕一人ではできないんだ」

 アイラの返事は、扉を二回叩くことだった。




 砂漠の国──ファルーハ王国。国が栄えているかどうかは、女や子供の様子を見ればいいという。男だけではなく女も店を出し、子供の笑い声があちらこちらで響き渡っていた。

 フィリはこれほど栄えた国は見たことがなかった。

 異国では、女は働けない国もあるという。ここでは関係なく皆が仕事に就いている。

「ヴァシリス王子、万歳!」

「ご結婚、おめでとうございます!」

「后様、バンザーイ!」

 馬車はゆっくりと、民へ見せるように通っていく。

 そのたびに、民たちは祝いの言葉を惜しげもなく浴びせた。

 処刑場どころか、歓迎されている。フィリはシルクの布の中で眉にしわを寄せた。半信半疑ではあったが、少なくとも民たちは心から歓迎している。

「フィリ様、あと少しで布を脱ぐことができます」

 シルクの布は薄手ではあるが、ここは砂漠地帯。背中は汗で濡れに濡れ、目が霞む。

 フィリの住むルロ国では、夏以外はほとんど雪が降っているような地域だ。ファルーハとは真逆である。

 やがて町を抜けると、城の中へ入った。

 馬車から降りて城の中へ入っていくと、大きな噴水がある。

 色とりどりの生花や木々が植えられていた。

 自然を城の中に作ることによって、外とは違い涼しく過ごしやすい。

「まったく……ヴァシリス王子には困ったものだ」

「……で、まさか行くなんて…………」

 ヴァシリス王子。夫となる人だ。角で誰かが噂話をしている。

「お止めなさい。后の御前です」

 アイラは強い口調で言い放つと、男たちは口を噤んだ。

「数々の無礼をどうかお許し下さい」

 まだ喋ってはいけないのだろう、とフィリは扉を叩く。

「寛大な御心、感謝いたします。ちょうど今、フィリ様が叩いた扉が華燭の儀を行うための準備室となります」

 華燭の儀とは、結婚式のことである。

「今宵はこちらでお休みになって下さいませ。明日が本番となります。憚りながら、明日、フィリ様とお話しできることをとても楽しみにしておりますわ。日が沈む頃、夕餉をお持ちいたします」

 アイラが下がると、部屋には独りだ。

 シルクの布を無作法に取り除いた。ソファーに用意されている衣服に着替える。風通しが良いが、ルロ国の厚着に比べると頼りない。宝石を散りばめたネックレスもあったが、こちらは触れずにそのままテーブルへ置いた。

 カーテンはエメラルド色で、金で花や鳥の絵が描かれている。

 カーテンと窓も開けた。こんがりと肉の焼けた匂いがする。

 寝台は手足を伸ばして寝られるほど大きい。柔らかな枕に顔を埋めた。


 起きると日が沈んでいて、もう真夜中だった。

 テーブルにはメモが残されていて、起きたら口に入れてほしいと、アイラからのものだった。

 スープとパン、フルーツ。馬車から見えた店も、カゴにたくさんのフルーツが乗せられていたが、ファルーハ国では食事のたびに食べるようだ。

 スープはトマトとスパイスが効いていて、パンは少し硬めだった。バターまで用意されていたが、貴重なもので手が出せなかった。

 フルーツは花のように色彩豊かで、山盛りの中からひと口サイズのものを手に取った。皮を向くと白い実が出てきて、砂糖を食べているかのようだ。

 外で木々が揺れた。風で揺れるのとは違う、人為的なものに聞こえた。

「野生動物か……?」

 開けっ放しにしたはずのカーテンや窓は閉まっている。おそらく、アイラが元に戻したのだろう。

 カーテンをゆっくりと引くと、木の上に何かの生き物がいた。向こうも気配を伺っている。

「誰だ」

 逃げる様子もない。もう少しカーテンを開けると、フィリは驚いて目を丸くした。

 木の上に座っているのは、まだ幼さが抜けきれない子供だ。年齢な十五歳前後くらいで、目が合った。

 ここだけが時間が止まったように、互いに動けない。

「何をしている。ここは立ち入り禁止だ。それに今、何時だっと思っているんだ」

 彼へ向けて囁くように叱った。すると少年は小さく頷き、

「光が漏れていて……その、気になってしまった」

「そんな理由でこんな高いところまで登ったのか?」

「平気だ。降りられる」

 バルコニーへ出て、フィリは両手を伸ばした。子供は勢いよく胸に飛び込んできた。

 地下で生活を強いられてきた身体は弱く、簡単に後ろへ倒れてしまった。

「っ…………大丈夫か?」

「俺は平気だ。腰を痛めたんじゃないのか?」

「大丈夫。問題ない」

「……食事中だったのか」

 子供は窓の隙間から、テーブルに置いてあるトレーを見つめている。

「さっきまで眠っていた。遅い夕餉となってしまったんだ。ここではバターはよく食べられているのか?」

「バター? 朝も必ずといっていいほど出るし、料理にも使われる。苦手だったのか?」

「違う。僕の国では、バターは貴重品なんだ。あんな高級なものを用意されて、申し訳なくて食べられなかった」

「ウシやラクダ、ヤギのミルクからバターが作られる。遠慮せずに食べるといい」

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