第6話

 言った本人の方が赤面しそうになったが、もう制御が利かない。

「それで許してやろう。お前の数々の無礼を」

 マリオンは、固まっているフランシスに笑顔を見せた。破廉恥なことを口にしているくせに、せめて好青年に見えるようにと。

「安いものだろう。キスひとつで死罪を免れ……」

 言い終わらないうちに、鋭い音と共に右の頬に痛みが走った。

 平手打ちされたと気づいた時には獲物を掴んだ手は振りほどかれ、水はこぼれてシーツを濡らし、転がったコップは床に落ちた。

 ガラスの割れる音を残して、フランシスは部屋を飛び出していく。

 その開いたドアの外に、唖然とした顔のカイルが突っ立っていた。

 カイルはすぐに部屋に入ってきて、ガラスのかけらに気をつけながらベッドの様子を見た。

「シーツ替えてもらいますね、マーサさんに言って……」

 なんだか震えているような口調だった。

 見ると、必死に笑いをこらえている。

「いつからそこにいた?」

 マリオンは苦虫を咬みつぶしたような顔で言った。

「殿下の怒鳴る声が聞こえたので、心配になって……」

「どっちを心配した?」

「もちろん殿下です」


 翌朝、なんとか起き上がれるようになったマリオンは、カイルに支えられながら朝食の席についた。

「どうですか、具合は」

 オリバーがにこやかに迎えた。

「だいぶ良くなった。昨日塗ってくれた薬のおかげだろう」

 食卓にいたのは、車椅子に座ったジェイソン国王と、昨日もいた側近の男だけだった。

 ディーンやバルトワの騎士たちは、昨日のうちにそれぞれの家へ帰らせていた。

「どうぞ召し上がってください。マーサがフランシスと一緒にアステラ城に帰ってしまったので、私が作ったものですからお口に合うかどうか……」

「ふうん」

 食卓に並んだパンやサラダを眺めた後、だいぶ遅れてマリオンはオリバーの言葉に反応した。

「なんだって?」

 勢いよく立ち上がり、すぐに痛みに顔をしかめた。

「殿下!」

 カイルが慌てて支える。

「大丈夫ですよ。こう見えても料理はそこそこできますから」

「そこじゃない! フランシスが帰った?」

「はい。マーサはあの子の母親代わりなので、あの子がアステラ城に住まいを移した時に、一緒についていったんです。今回は陛下がお怪我をされたので、私一人では大変だろうと戻ってきていましたが」

「いつ?」

「かれこれ二か月ほど前……」

「そうじゃない! フランシスはいつ帰ったんだって聞いてるんだ!」

(このジジイ、俺の心が読めるくせにからかってるのか)

「昨日の夕方です」

「父親がまだここにいるのに?」

「一刻も早く訓練をしたいと」

 しばらく口を開けてオリバーを見ていたマリオンは、やがて気が抜けたような表情で椅子に座った。

「避けられてるように思えるのは気のせいか」

 ボソッとつぶやくと、独り言だったのにカイルが答えた。

「気のせいじゃないと思います」

「おい!」

 マリオンに睨まれてカイルが首をすくめた時、ジェイソン国王が穏やかな口調で言った。

「私も明日には城へ戻ります。馬車で迎えを寄こしてくれるように、マーサに伝言を頼んだので」

「いっそのこと、オリバー先生もアステラ城にお住まいになればいいんじゃないですか?」

 パンをかじりながらカイルが言った。

「そうすれば陛下の治療とか、何かと都合がいいんじゃないですか? 部外者が口出しするのもなんですが、国一番の名医がこんな所にいるのはもったいないんじゃ……」

「国一番ではないですし、私はここが好きなんです」

 にこやかに言う笑顔の裏にまだ何か隠してるようだと思いながらスープをすすったマリオンは、思わずそれを吐き出していた。

「うわっ、なんだこれ!」

「殿下、行儀悪いですよ」

 カイルが手近にあったナプキンでテーブルの汚れを拭いた。

「お口に合いませんか? 庭の薬草で作ったスープです。怪我にはよく効くんですよ」


 その薬草が効いたのか、翌日にはマリオンはすっかり健康体に戻っていた。

 そしてアステラ城から迎えの馬車がやってきた時、なんていいタイミングだと思いながらマリオンは言った。

「陛下の護衛をしながら、久しぶりにパティの顔を見にいこう」

「なんですって!?」

 予想通り、カイルは慌てふためいた。

「これ以上帰国を遅らせるわけにはいきません! 国王陛下がどんなにお怒りになるか……」

「その父上が決めた許嫁に会いに行くんだ。この国にいるのに素通りして帰ったら、よけい叱られるだろう」

 そしてマリオンは、口をパクパクさせているカイルを無視してオリバーに顔を向けた。

「世話になったな、オリバー」

「いえ、お怪我をさせたのは私の孫ですので」

 深々と頭を下げた後、オリバーはじっとマリオンをみつめた。

「マリオン殿下、本当にフランシスの味方になってくださいますか?」

 マリオンは微笑した。

「答えなくても、お前にはわかっているんだろう?」

「でしたら、お願いがございます。この場所と私の存在は、どうかバルトワの方にはご内密に……」

 再び頭を下げた老医師に、マリオンはすぐには答えられなかった。

 二日前、秘密を明かされた時、黒魔術師を手引きした黒幕の正体だけはオリバーは明言しなかった。「証拠がない」と言って。

 だが、それはやはり自分の身近な人間なのだと、今のオリバーの言葉でマリオンは確信せざるを得なかった。

「この森は、邪悪なものから守られております。今さらこの老いぼれが命を惜しむわけではありませんが、私にはまだ、やらなければならないことが残っております。先日の戦いで陛下はお怪我されましたが、敵の大将を討ち取りました。そして、あなた様のおかげでディアス軍はかなりのダメージを受けました」

「いや、大半はフランシスがやっつけた」

 少し悔しそうに言うマリオンを、オリバーは微笑して見た。

「ですから、当分は攻めてくることはないでしょう。ですが、きっといつかまた……」

「わかった」

「その時、この老いぼれの力が必要になるかもしれません。そんな時が来なければいいのですが……」

「ここにいれば安全なのに、フランシスはわざわざ危険な場所へ行ったのか」

(自分の母親を殺した人間のいる場所へ)

「あの子は確かめたかったのです。いろいろなことを……」

 マリオンは、オリバーのしわだらけの手を握った。

「約束するよ、オリバー。俺はフランシスを守る」

「守る」などと言う言葉を一番必要としない存在なのに、それでも敢えてマリオンは断言した。

 なぜか今マリオンは、あの気の強い最強の戦士が、実は誰よりも救いを求めている危なげなものに思えてならなかった。

 そして気持ちは、彼女の元へと逸った。

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