第4話

 目を覚ますと、自分をのぞき込んでいるカイルの浅黒い顔が視界を埋めていた。

「ああ良かった。気がつきましたか?」

 さほど心配してなさそうな口ぶりだった。

「軽い脳震盪だそうですよ。あちこち痛むところはあるでしょうが、頑丈な殿下ですからすぐに元気になります」

 どのくらい意識を失っていたのか、今は何時なのか、そもそもいったい何がどうなった?

 まだぼんやりした頭の中で問うべきことを探しているうちに、カイルの方が先にまた口を開いた。

「それにしてもすごい子ですね。殿下を投げ飛ばすなんて。私も見たかっ……」

 睨みつけて最後まで言わせなかった。

 カイルは慌てたように立ち上がった。

「先生を呼んできます」

 ドタドタと足音を響かせてカイルが出て行った後も、マリオンはまだ事態を把握できずにいた。

(投げ飛ばされた? この俺が? あんな小娘に?)

 ノックの後、扉が開いてオリバーが現れた。

 起き上がろうとしたが、肩やら腰やらに激痛が走ってうまくいかなかった。

「痛みますか?」

 相変わらず泰然とした口調だった。

「体より、心のダメージの方が大きいようだ」

 ため息まじりにマリオンは言った。

「本当に、俺はあの子に投げ飛ばされたのか?」

「躾が行き届いていなくて申し訳ありません」

 さほど反省していないような口調だった。

 この男はきっと見抜いているのだと、マリオンは思った。自分は決してフランシスと敵対することはないだろうと。

「オリバー、さっき、俺がフランシスの味方になると言ったな」

「はい」

「あなたにはずっと、俺のことを見透かされているような気がしている。ただの老いぼれなんて言ったのは謙遜で、恐らくあなたは普通の人間ではわからないようなこともわかるのだろう。だから、俺の人間性もわかっているよな」

 オリバーはただ黙って、静かな目をマリオンに向けていた。

「俺は、正義である方の味方につく。たとえそれが、身内を敵に回すことになっても」

 言いながら、それは少し違うとマリオンはわかっていた。

 正義だからではない。そもそも正義なのかどうかまだわかってはいない

 フランシスだから、あの強烈な魅力を放つ天使に魅せられてしまったから、自分はきっと彼女を守る。

 そして恐らく、この老医師はそこまで見抜いている。それをわかっていても、マリオンは敢えて言葉だけはかっこつけさせてもらった。そもそも、今の時点で自分より強いらしい女を「守る」などと言ったら、きっと心の中で笑われる。

「だから……」

 マリオンは、肩の痛みをこらえながら体をオリバーの方に向けた。

「話してくれないか。あなた方が抱えている秘密を」

 徐々に言葉と視線に熱を込めているマリオンとは対照的に、オリバーは悔しいほど冷静な表情だった。

「殿下、まずわかっていただきたいのは、私たちは決して何か策略があってフランシスのことを隠していたわけではないということです。話しても、恐らくたいていの人には信じてもらえない、真実を話す方が逆に嘘をついていると思われかねないような複雑な事情があったのです。そして何より、隠していたのはフランシスのためでした。男なのに女として生きることも、女なのに男として生きることも、どちらもあの子には苦難の道です。せめて、あの子がより生きやすい道を選んであげたかった」

 意味が理解できずに、マリオンは眉をひそめた。

「殿下、あの子は、体は女でも心は男なんです」

 その言葉をしばらく頭の中で反芻していたマリオンは、極力冷静でいようと努めながら言った。

「そう言えば、そういう人種が少数存在することを聞いたことがある」

「いえ、殿下が思ってらっしゃるのとは少し違います。何から話しましょうか……」

 うつむいたオリバーの茶色い目に、珍しく悲しげな色が宿った。

「あの子は、私の娘エレナが産んだ子、私にとっては、たった一人の孫です」

 マリオンは、驚きと同情の気持ちで老医師を見た。

「さっき、殺されたって……」

 その問いかけには敢えて答えず、老医師は話を続けた。

「私は王室専属の医者で、エレナはその助手をしていました。恐れ多いことに陛下の目に留まり、フランシスを身籠りました」

 あの美少女の母親だ。恐らく相当の美貌だったのだろうとマリオンは想像した。

「殿下のご指摘のとおり、私には少しばかり普通の人には見えないものが見えます。私の血を継いでいるエレナも同様でした。私たちにはわかっていました。産まれてくる子が、戦の神の祝福を受けた男児だと」

 マリオンは、ゆっくりと体を起こした。寝ながら聞く話ではないような気がしたのだ。

 痛みに顔をしかめているマリオンを支えようとしたオリバーの手を制して、唸るような声で言った。

「いい、続けろ」

 それでも少しでも楽なようにと、オリバーは枕を背もたれ用に置いてくれた。それだけでは足りないと思ったようで近くの椅子を持ってきて、その上にあったクッションも枕の上に乗せた。

 手編みのような毛糸のカバーで覆ってある。

 そして自分はその椅子に座った。

 重い息をひとつつくと、伏し目がちにまた話し始めた。

「産まれる子が男児だということだけではなく、それを快く思わない人間の存在も、私たちはわかっていました。危険が及ぶ前に、私たち親子は城を出てこの森に住まいを移しました。私は、私の持ちうるすべての力を注いで、この森に結界を張りました。しかし、エレナに会いに来た陛下の従者の一人が、黒魔術師の手先だったようです」

「黒魔術師……」

 マリオンは息を呑んだ。

「その者も、知らずに魔術で操られてしまったのでしょう。陛下が一番信頼していた従者でしたから。その従者がこっそり置いていった小さな石によって、エレナは呪いをかけられてしまいました」

 マリオンは、動悸が早くなるのを感じた。

 20年前の騒乱の時、アステラの魔術師によってほとんどの黒魔術師は退治された。だが、たった一人いたはずの生き残りがどこに幽閉されていたのかを、マリオンは知っている。そして突如姿をくらましたことも。

「黒魔術師の狙いは、男児を死産させることでした。だからエレナは、出産の間際、自分のすべての魔力を使ってフランシスを女の子にしたんです」

 目を丸くしているマリオンの視線を、オリバーは静かに受け止めていた。

「すべての力を使い果たしたエレナは、自分の産んだ子が女の子だったことを見届けると、息を引き取りました」

 しばらく沈黙が続いた。

 マリオンは、オリバーの顔を見ることができずにいた。

「それなら……」

 何から言うべきか頭の中で整理できないまま、それでも重い口を開いた。

「それならなぜ、女として育てなかったのだ?」

「陛下と、その弟君のジュリアン公爵、そしてメイドのマーサ、先ほど顔を出した女性です。そして私の四人だけが、すべての事情を知っていました。私以外の三人は、みな今の殿下と同じ考えでした。女として育てるべきと。特に陛下は、赤ん坊を城に連れ帰って自分の元で育てたがった」

「当然だろうな」

「ですが殿下、驕っていると思われるかもしれませんが、私にはわかったのです。あの子は、男だと。そして陛下よりも、ジュリアン公爵よりも、強い戦士になると」

 マリオンは、つい非難するような眼でオリバーを見ていた。

「エレナの魔法も、戦の神の力には勝てなかったのです」

「今ならそうかもしれないと言えるだろう。でも、赤ん坊の時から女として育ててあげていれば……」

 あんな小さな体に、アステラの未来を背負わせるなんて。

「殿下、やはり私の言葉は信じられませんか? まあ、それも当然でしょう。でもだからこそ、今までバルトワに真相を明かせなかった事情もおわかりいただけたでしょう。エレナが身籠った子が最初は男児だったということも、黒魔術の呪いを受けたということも、そしてエレナの力で女児として産まれたということも、わかっているのは私だけです。何の証拠もない。頭がおかしい奴が戯言を言っているだけだと笑い飛ばされるのが落ちでしょう。まして他国の方ならなおのこと」

 マリオンは返す言葉がない。

「私の力をわかっているはずの陛下やジュリアン公爵も、最初はそうでした。ですが、アステラ城で育てることは危険だという警告はわかってくださいました。エレナの妊娠を知っていた人々には、赤ん坊は母親と共に亡くなったと伝えられました」

「確か騎士団の連中が、二か月前から一緒に訓練していると言っていた。それはつまり、今は城で暮らしているということか」

「はい。きっかけは、ジュリアン公爵が不幸にもお亡くなりになったことです。国中から後継ぎがいないことを心配する声が上がり、陛下もまた、フランシスを身近に置いて学ばせたいことがたくさんあったのです。フランシスも、自分を守る力は十分身につけましたし、いつかはその時が来ることは私もわかっていましたから」

「だが、死んだと言われていた子供が生きていたと知らされた者たちは、さぞかし驚いたろう。特に……」

 マリオンは、次の言葉を言うことに少し躊躇した。

「叔母上は……」

 オリバーは少しも動揺せず、それどころか口元をほころばせた。

「陛下は実直な男として国民の絶大な信頼を得ていましたから、そのイメージが崩れて国政に悪い影響を及ぼしたくなかったのだと、王后陛下はじめ臣下の者たちには伝えたそうです」

 そしてオリバーは、また表情を引き締めた。

「殿下は先ほど、陛下の立場なら庶子が何人かいてもおかしくないとおっしゃった。そして、世継ぎが欲しいなら子供をつくればいいと。ですが、陛下は本当に実直な方なのです。親である私が言えばよけい嘘に聞こえるかもしれませんが、そして殿下の叔母君のグレース王妃に大変失礼な言い方にはなりますが……」

 オリバーは目を伏せた。

「陛下が愛したのは、エレナただ一人です」

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