第2話
踏み出した足が落ちていた枝を折り、思いのほか無粋な音を立てた。
先に気配に気づいて振り向いたのは白馬の方だったが、その意識が伝わったかのように、距離があったはずの少女の視線もこちらに向いた。
「ブランカ!」
叫び声と同時に、白馬は足元にあった白い布のようなものをくわえて駆け出した。
少女の姿は水中に消え、再び現れたときは信じられない速さで岸辺に泳ぎ着いていた。
そしてこれまた飛ぶような速さで主人を迎えた白馬からその布――少女のシャツらしい――を受け取ると、それを羽織って白馬に飛び乗る。
一連の出来事を、マリオンとカイルは呆けたように口をあけて見ていた。
「賢い馬だ」
カイルは感嘆してつぶやいた。
「欲しい……」
湖の反対側へと少女と白馬が姿を消してから、カイルは我に返ったように主人の横顔を見た。
「アレが欲しいぞ、カイル」
「アレって、どっちですか?」
問われて初めて、自分のことばの不遜さにマリオンは気づいた。が、言い直そうとは思わなかった。
子供とか、少女とか、まして人間とか、そんな言葉のどれもふさわしくないような気がして、マリオンはたった今見た美しいものを、なんて表現していいのかわからなかったのだ。
翌朝、マリオンはカイルと少数の従者を連れて、ジェイソン国王が治療を受けているという診療所に向かった。
ろくに整備されていない、馬一頭がやっと通れるような細い道だった。
日中は猛暑が予想される季節だったので早めに出発したが、それでもマリオンの精悍な顔を汗が流れ落ちていく。
途中にあった昨夜フランシスを見た湖で、彼女が水浴びしたくなった気持ちもわかるような気がした。
が、その暑さもしのげるほどの木々に覆われた森の中へと、一行は進んでいった。
通称「イストレラの森」と呼ばれていると、案内役を買って出た騎士が教えてくれた。アステラでも一番深い森だという。
「こんな辺鄙な場所に、本当に診療所なんかがあるのか?」
道幅が少し広くなったところでマリオンは先頭まで進み、その騎士の横に並んで問いかけた。
アステラ軍は、幾人かは怪我人を連れて帰城したが、用心のため多数の騎士が砦に残り、道案内をしているのは彼ひとりだった。
名をディーンといい、昨夜騎士団長の隣でフランシスをかばった男だった。
騎士団の怪我人は城へ戻ったというのに、なぜ国王だけがこんな森の奥の診療所などにいるのだろう。
「オリバー先生ほどの名医はどこにもいません。ですが今はほとんど引退されて、薬草づくりばかりしているそうですが」
そして次の言葉に、マリオンは思わずディーンの横顔を凝視していた。
「フランシス様はオリバー先生に育てられたと聞いています。体が弱かったそうで」
「体が弱い?」
「ええ、それがあんなに強い騎士になるんですから、それだけでもオリバー先生の力がわかるでしょう? 私はフランシス様の護衛を任されていたんですが、私なんかが出る幕もありませんでした。あ、でもこう見えても、私も騎士団の中では強い方なんですよ」
フランシスの話をする時のディーンの顔は、なぜか嬉しそうだった。
「それにしても、そんなに名医ならその医者の方を城に呼べば済むことじゃないか。第一王子が親元から離されて、こんな森の奥で育てられるなんて。まるで……」
まるで隠されていたみたいだ――言いかけて、そうか、とマリオンは思った。
「アステラの王族の男児は、諸外国から命を狙われやすいのです」
「なるほどな。だから強くなるまで隠していたのか。親戚関係にある我々にまで」
「あ、いや、それは……」
ディーンは急に居心地が悪そうになった。
「案外、体が弱いという話もただの口実かもな。お前たちは信じたのだろうが」
「う、嘘ではないと思います。現にフランシス様は、ほとんどしゃべれないのですから」
「しゃべれない?」
「声が出ないわけではないそうですが、病気の後遺症であまり会話ができないそうです。それでも戦場であれほどの力を発揮できるのですから、そんなことは取るに足らないことです」
「だから、お前たちは年がいくつかも知らなかったわけか」
納得したふりをしながらマリオンは、
(極力声を聴かれたくないのだな)
と思った。
あの白馬を呼んだ声は、美しいソプラノだった。
まして男なら、もう変声期を迎える年頃だろうに。
「だが、突然第一王子だと名乗る子供が現れて、しかも子供なのにお前たちより強い。さぞかし、お前たちも混乱したのではないか」
「確かに最初は驚きましたが、陛下の血を立派に引き継いだ王子の存在を知った喜びの方が大きくて、私たちは皆、ただただ嬉しかったのです。ジュリアン様がお亡くなりになってどうなることかと思っておりましたが、これでアステラは安泰です」
ジュリアンとはジェイソン国王の弟だが、半年ほど前に戦死している。それも確か、ディアスとの戦いだったはずだ。
ジュリアン公爵という後継者の存在があったから、アステラの国王の一人娘とマリオンの婚約が成立したのだ。
(そうか、ジュリアン公爵が早逝したから、本当の後継者の存在を表に出さざるを得なくなったのか)
「ジュリアン公爵も、強い軍人だったな」
「はい。ですが、フランシス様の強さはそれをはるかに凌ぎます。一緒に訓練させていただいてまだ二か月ですが、軍神とはあのような方を言うのです」
またディーンの口調がなめらかになってきた。
「はは、惚れているのだな、フランシス王女に」
ディーンは、何を言われたのかわからないといった顔でマリオンを見た。
「無理もない。あれほどの美人だ」
「何をご冗談おっしゃってるんですか。フランシス様は王子です。そりゃ、おきれいな顔をしてらっしゃいますが」
鎌をかけてみたが、ディーンは心底フランシスが男だと信じ込んでいるようだった。マリオンを騙そうとしているようには見えない。
(二か月くらいなら、まあ、隠せるのだろう。しかし、いつまでもは無理だ)
「そうか。残念だな。あんまり美人だから、てっきり女かと」
「戦の神の祝福を受けるのは男児だけです。あんな強い女性がいるわけない」
確かに、女にしては強すぎる。
(だが……)
男にしては、美しすぎる。
月光を浴びたフランシスの裸体を、マリオンは思い出していた。
それは、本当に小さな診療所だった。
夏の草花が生い茂る庭で、数羽の鶏が放し飼いにされていた。そしてその庭の片隅に馬小屋があり、そこに白馬がいた。
やっと会えるのだな、とマリオンは思った。
昨夜の衝撃からまだ一日もたっていないというのに、自分はどれほどあの青い瞳に会いたかったのかと思うと、自然に苦笑していた。
ジェイソン国王を見舞うなどとは、うまい口実だった。
いやもちろん、重傷だという国王を心配する気持ちは十分ある。
三日三晩馬を走らせ、生死を賭けた戦いに身を投じ、決して疲れていないわけではないが、それでもこんな場所まで見舞いに来るのは立場上決して不自然なことではないだろう。ジェイソン国王は大事な同盟国の君主であり、自分の婚約者の父親だ。
自分自身にそう言い聞かせたし、カイルに反対されたらそう言うつもりだった。
だが、カイルは何も言わなかった。参戦に反対だったニコラス国王の機嫌をこれ以上そこねないため、早く帰国するべきと主張しそうなものなのに。
(お前も好奇心に勝てないのだろう)
マリオンは、ほくそ笑みながらカイルを見た。
その時、診療所の扉が開いて初老の男が姿を現した。立派な白い髭を口の周りに蓄えている。
「ようこそおいでくださいました。マリオン殿下」
マリオンは違和感を感じた。
複数の馬の蹄の音で、来客は察していたのだろう。だが、それが自分たちだとなぜわかったのだ?
「伝書鳩を飛ばしたのか?」
マリオンは隣にいたディーンに聞いた。
「いえ」
ディーンの表情は、フランシスの話をする時のように誇らしげだった。
「オリバー先生はなんでもご存じなのです」
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