第七章 君来たる

 会話室の本棚の前で、彼女はふと足を止めた。指先が、まるで何かを確かめるように、一冊の絵本を手に取る。表紙を開けると、ガラス越しに差し込む外の陽射しが、柔らかな金色の光をその縁に落とし、部屋を穏やかな温もりで包んだ。


「これ、昔読んでもらった気がする」


「ママはいつもお仕事でいなかったから、

 ひとりで寂しかったんだよね。

 絵本読んでもらうのがめちゃくちゃ楽しみだったなぁ。


 それと、『あらしのよるに』! あれはハッキリ覚えてる。

 宿題にしてて、読み切れたときほんとに嬉しかった。

 なんか、自分でもびっくりするくらい。」


 彩花の横顔を見ながら、相川はふと微笑んでいた。


 その題名を聞いた瞬間、相川の胸の奥で眠っていた記憶が鮮やかに開いた。

 嵐の夜に出会ったヤギとオオカミ。

 絵本コーナーで見た光景が、まるで昨日のことのように鮮明に甦る。低い本棚、丸いカーペット、そして少女が膝に抱えていた絵本——そのページをめくるたびに響いた「あっ!」という声。少し背中を預けるその小さな重み。窓の外の蝉の声まで、あの日と同じ温度を持って戻ってきた気がした。


 そして、彼女はあの頃と変わらず、ページの最後でふと息をつき、「おしまい」と小さな声で呟いた。


 その一言が、相川の胸に、あの夏の温もりを呼び覚ました。驚きが走ると同時に、彼の記憶が静かに、しかし確実に繋がっていく。少女の顔、その髪を二つに結んだ姿が、あの頃と同じように蘇ってくる。背が伸び、日々の中で少し大人びたけれど、笑い方や、ものをじっと見つめる真剣な眼差しは変わらなかった。


 彼女がまっすぐに相川を見つめ、小さく笑った。


「楽しかったなぁ」


「私、こんな格好してるけど、割と成績いいんだよ。小学校に入った時、教科書に何が書いてあるか全然わからなくて、ほんとダメダメだったんだけど、誠一がさ、小学一年生の夏休みに本を読んでくれたから…」


 言葉の端々に、あの無邪気な記憶が淡く漂っている。「誠一」と呼ばれ、相川は思わず言葉を飲み込んだ。自分の名前を、こんなふうに呼ばれることが、こんなにも胸を打つものだとは思わなかった。


 彼女がふっと顔を寄せ、鼻をすぼめる仕草をした。


「昔と同じ匂いがする」


 相川は思わず問いかけた。


「どんな匂いだ?」


 彼女は小さく笑い、こう答えた。


「夏休みの図書館の匂い。ちょっとインクと日向が混ざった感じ」


 その冗談めいた一言に、相川は胸が静かに跳ねた。笑って返さなければならないのに、言葉がうまく出てこない。口元だけが、ぎこちなくほころび、胸の中で過去の時間がゆっくりと溶けていくのを感じた。彼女の肩越しに漂う日向とシャンプーの香りが、あの日の夕暮れと重なり、視界が一層鮮やかに広がった。


 そのとき、相川はふと手元に目をやった。いつものように持ち歩いている薄い手帳を、忘れたようにバッグから取り出し、ページを繰った。表紙に乱れた文字で書かれた句が、彼の目に飛び込んできた。


    向日葵の

    笑うかのごと

    君来たる


 目の前の光景と、手帳の文字が重なる瞬間、相川はその三行にあの夏の一瞬が凝縮されているように感じた。指でそっと行をなぞり、胸の中に小さな光が震えるのを覚えた。眩しさと温かさが一緒に押し寄せ、心の中で守りたいという気持ちが静かに膨らんでいった。


 彼女が手帳を覗き込み、ふっと笑った。


「やだ、誠一、詩人みたいだね」


 その言葉に、相川はぎこちなく笑い返した。二人の間に流れる空気は、あの夏と変わらず向かい合っているようで、けれども確かに時間の重みを帯びていた。

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