第四章 触れてはならない手
ある日、彼女は私に一つの願い事をした。
そのあまりにも無垢で、そして残酷な願いを。
「あなたの顔に触れてみてもいい?」
私は絶望した。
それは絶対にできないことだった。
私の皮膚は生体金属とセラミックの合金で覆われている。そしてその表面温度は冷却システムの故障により、常に摂氏六十度を超えている。彼女のその柔らかく滑らかな手は、触れた瞬間に酷い火傷を負うだろう。
熱力学の第二法則――エントロピーは常に増大し、私の体内の熱は外部へと放散され続ける。私は歩く焼却炉なのだ。
それだけではない。
私の表皮からは常に微量の神経毒が汗のように分泌されている。戦闘時に敵の素手による攻撃を無効化するための機能が、今も止まらずに律儀に働き続けているのだ。
神経毒テトロドトキシン――フグ毒として知られるこの物質の千倍の毒性を持つ合成毒素が、私の毛穴から絶えず滲み出している。一ミリグラムで成人男性を即死させる猛毒。
私は静かに首を横に振った。
私の首筋で冷却ファンがひときわ大きな悲しい音を立てていた。
リラは悲しそうな顔をした。彼女の鋭敏な共感能力が私の拒絶の理由を、その奥にある深い苦悩を感じ取ったのだろう。
それでも彼女は私を責めなかった。
ただ「いつか、きっと」と小さく呟いて、いつものように優しい歌を歌ってくれた。
その日から彼女は森に来なくなった。
やはり化け物に愛想が尽きたのだろうか。
私の醜さに絶望したのだろうか。
私の王国は再び完全な沈黙に包まれた。
だがその沈黙は以前の無機質な沈黙ではなかった。
そこには失われた温もりの不在だけが空しく、そして痛々しく響いていた。
私のAI演算装置が残酷な計算を続けている。
彼女との幸福な時間をデータとして分析し、論理的に結論を導き出す。
『この感情は不合理である。機械に愛は不要である。人間の記憶部分がシステム全体の機能を著しく阻害している』
だが私の中に残された人間の部分が必死に抵抗する。
これは愛だ。
確かに愛だ。
機械の身体に人間の心を無理やり押し込められたこの私にも、誰かを愛することはできるのだと。
愛の定義――オクシトシンとドーパミンの分泌による生理的反応。だがそれだけでは説明できない何かがここにはある。私の電子回路に宿った魂の実在。
私は決意した。
この呪いを解く方法がもし一つだけあるのなら。
私はそれを試すしかない。
彼女を守るために。
そして、この醜い私を終わらせるために。
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