第6話【セレスフィア視点】王都への決意
「聖獣様……」
母が、小さなスライム――私が『ポヨン』と名付けた、奇跡の存在を、震える手で優しく撫でている。長年、夫の死と家の没落の心労から塞ぎ込んでいた母の頬に、微かな血の気が戻っているのを見て、私は唇を噛み締めた。
この出会いは、神の御業以外の何物でもない。
オーガを一口で食らい、騎士たちの瀕死の傷を瞬く間に癒す力。それだけでも十分すぎる奇跡だというのに、私が真に戦慄したのは、ポヨン様の隣に、我が主とばかりに寄り添う、あの神獣の存在そのものだ。
鷲の頭と翼、獅子の胴体を持つ、百獣の王にして天空の覇者――神獣グリフォン。我がアストライア王国においては、建国王が契約を交わしたとされ、王家の紋章にも描かれている、絶対的な権威の象徴たる神獣だ。しかし、その誇り高き魂を真に従えることができたのは、歴史上、建国王ただ一人。先代の陛下がその力を欲し、グリフォン捕獲のために禁断の呪具『奈落の荊(ならくのいばら)』を用いたのは、王家の歴史における最大の汚点として語り継がれている。あの愚行で、当時の近衛騎士団は壊滅的な被害を受け、グリフォン自身も癒えぬ呪いの傷を負った。それ以来、神獣は人前に姿を現すことは滅多になく、ごく稀に森で目撃される際も、その後ろ足には、常に禍々しい『奈落の荊』が突き刺さったままだったという。
森で初めてグリフォン様にお会いした時、その神々しいお姿に畏怖した。そして、伝説にあったはずの『奈落の荊』が、どこにも見当たらないことに気づいたのだ。その逞しい後ろ足には、傷一つ、呪いの痕跡すら残ってはいなかった。
初めは、何かの間違いかと思った。だが、オーガに襲われたカシウスを蝕む強力な毒を、ポヨン様が吸い尽くすのを見て、私は確信した。私がグリフォン様に出会うより前に、この小さく不思議な聖獣様が、グリフォン様の呪いを浄化したのだと。そうでなければ、あの誇り高き神獣が、これほどまでに懐く理由など説明がつかない。
この奇跡は、もはや我が家の危機を救うという次元の話ではない。王家の失われた権威を、そして建国の理想を、根底から揺るがすほどの、とてつもない意味を持つ。
その夜、私は母と兄を集めた。
「セレスフィア、一体何なのだ。」
兄は、リンドヴルム家の当主となってから心労で刻まれた眉間の皺を、さらに深くした。
「兄様、母上。私は、王都へ向かおうと思います」
私の唐突な言葉に、部屋の空気が凍り付く。
「何を馬鹿なことを言っている! セレスフィア、今回のことは、決して他言してはならん! 中央の者たちに知られれば、我々は今度こそ全てを奪われるぞ!」
兄の怯えた声が、静かな書斎に響いた。
先の帝国との戦争で父は不可解な偽情報によって致命的な誤判断をさせられ、子爵から男爵へと格下げされた失意のうちに病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。父は最後まで「誰かに嵌められた」と無念を口にしていた。その言葉が、今も私の胸を締め付ける。
そのことが兄を臆病にさせてしまっていた。
「兄様、もう手遅れです。隠し通すことなど到底できません」
私は静かに首を横に振った。
「な……どういうことだ!」
「神獣グリフォン様は、もはや森の魔物ではありません。騎士たちも、そして先日訪れた村人たちも、その姿を見ています。噂は火の如く広がり、数日のうちに王都にも届くでしょう。隠そうとすればするほど、噂は歪み、我々にとって不利な憶測を呼びます。……最悪の場合、神獣を匿ったとして、反逆の罪に問われかねません」
「そ、そんな……」絶句する兄を前に、母が涙ながらに私の手に縋り付いた。
「セレスフィア……あなたの気持ちは分かります。けれど、なぜあなたが行かないといけないの……」
母の震える手を、私は優しく握り返した。
「母上。ポヨン様とグリフォン様は、私たちに奇跡を与えてくださいました。ですが、その力はあまりに強大です。王家を含め、誰もがこの力を欲しがるでしょう。私たちがこの辺境でただ怯えていれば、あの方たちは『物』のように奪われ、権力争いの道具として利用されるだけです」
私の言葉に、二人は息を呑んだ。
「そうなる前に、私たちが動くのです。彼らがこの奇跡を利用する前に、私たちが王都で確固たる立場を築き、あの方々を『守る』ための盾とならねばならないのです」
私は続ける。
「彼らが動く前に、先手を打ちます。グリフォン様のお力をお借りし、堂々と空路で王都へ向かうのです。圧倒的な奇跡を白日の下に晒し、誰にも下手な手出しができない状況を作り出します。そして、王城の門前に降り立ち、病床の国王陛下に代わり国を統べるイザベラ第一王女殿下、あるいはリチャード第二王子殿下に直接謁見を願います」
私の計画のあまりの壮大さと危険さに、兄は言葉を失っている。
「もし……もし、謁見が叶わなかった場合はどうするのだ」
「その時は、王都の下層地区へ向かいます。かの地には病や貧困に苦しむ人々が大勢いると聞きます。ポヨン様の力で彼らを救い、民衆の圧倒的な支持を先に得るのです。『辺境に聖女現る』という既成事実を作ってしまえば、王家も大神殿も、私たちを無視することはできなくなります」
危険な賭けだ。だが、この奇跡をただ守り、辺境の地で燻らせておくことこそ、天啓に背く緩慢な自殺行為に他ならない。
沈黙を破ったのは、母だった。母は涙を拭うと、私の瞳をまっすぐに見つめた。その眼差しには、もう怯えの色はなかった。
「……あなたの瞳は、お父様によく似ています。一度決めたら、決して揺らがない。……分かりました。あなたを信じましょう。どうか、ご無事で」
兄はまだ納得しきれない顔をしていたが、母の言葉に、そして私の覚悟に、もはや反対の言葉を口にすることはできなかった。
翌朝、私は残された騎士団員全員を練兵場に集めた。
彼らは皆、父が率いていた頃からリンドヴルム家に仕える、忠義に厚い者たちばかりだ。私は、彼らの前に立ち、深く息を吸った。
「皆に伝えたいことがある。私は、聖獣ポヨン様、そして神獣グリフォン様と共に、王都へ向かうことを決めた」
私の宣言に、騎士たちの間にどよめきが走る。
「この奇跡は、もはやこの辺境に留め置けるものではない。座して待てば、王都の権力者たちがこの力を求め、いずれ我らは蹂躙されるだろう。そうなる前に、我ら自らが動くのだ」
私は、一人一人の顔を見据えて言った。
「だが、このリンドヴルムの地を無防備にはできぬ。皆には、私が不在の間、この地と、我が家族を守ってもらいたい。皆を信じている」
そして、私は一人の騎士の名を呼んだ。
「カシウス・フォン・ドラグーン」
「はっ」
「そなたには、私の護衛をしてもらいたいが、これは命令ではなくお願いだ。受けてくれるだろうか」
私の問いに、カシウスは静かに歩み出ると、私の目の前で、恭しく片膝をついた。
「セレスフィア様の行く道が、たとえ茨の道であろうとも。このカシウス・フォン・ドラグーン、命に代えてもお供し、お守りいたします」
彼の揺るぎない忠誠心に、他の騎士たちも「おおっ」と奮起の声を上げる。カシウスの瞳に宿る覚悟を見て、私は、王都へ向かうための準備を始めた。
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