第33話 名もなき二人、最初の変装
森の中を、私たちはひたすらに歩き続けていた。
王都へと続く整備された街道ではない。獣や猟師が使うだけの、踏み固められてもいない険しい道だ。木の根が足に絡みつき、ぬかるんだ地面が体力を奪っていく。貴族の令嬢として、柔らかい絨毯の上しか歩いてこなかった私にとって、それはあまりにも過酷な道のりだった。
革製の靴はとうに泥で汚れ、裾の長いドレスは枝に引っかかって、あちこちがほつれていた。
息が切れ、足は鉛のように重い。
何度も、その場に崩れ落ちてしまいたい衝動に駆られた。
けれど、そのたびに、私は前を歩く彼の背中を見て、奥歯を強く噛み締めた。
彼は、時折こうして私を振り返り、その歩みが遅すぎないか、辛くないかを確認するように、気遣わしげな視線を向けてくれる。その赤い瞳を見るたび、弱音を吐いてはいけないと、強く思った。
これは、私が選んだ道なのだから。
「……っ!」
不意に、木の根に足を取られ、私はバランスを崩した。
地面に倒れ込むことを覚悟した瞬間、力強い腕が、私の体をぐっと支えてくれる。
「っと、危ない。大丈夫か、ティナ」
彼の胸に、もたれかかるような形になってしまった。
間近で感じる彼の匂いと、筋肉質な体の感触に、心臓が大きく跳ねる。
「ご、ごめんなさい……!」
慌てて体を離そうとすると、彼は「いや」と、私の腕を掴んで制した。
「君が謝ることじゃない。俺の配慮が足りなかった。……少し、休もう。無理は禁物だ」
彼はそう言うと、近くにあった倒木に私を座らせ、どこからか取り出した木の実を差し出してくれた。それは、森で採れたばかりなのだろう、少し土の匂いがした。
「毒はない。腹の足しにはなるはずだ」
「……ありがとう」
木の実を一口かじると、素朴な甘さが口の中に広がった。
王宮で食べたどんな豪華な菓子よりも、それはずっと、美味しく感じられた。
彼が隣に座り、水筒の水を飲む横顔を、私は盗み見る。
彼は、王都にいた頃の豪奢な衣装ではなく、動きやすい旅人のような服を着ていた。いつの間に用意したのだろう。私が泣き崩れていた間に、きっと、たった一人で全てを準備してくれていたのだ。
「……あなたは、どうしてそんなに色々なことを知っているの?」
素朴な疑問が、口からこぼれた。
「森で食べられるもののことも、追手から逃れる方法も、これから行く場所のことも……。まるで、全部、前から知っていたみたい」
彼は、一瞬だけ遠い目をしてから、ふっと笑った。
「……まあ、色々とな。昔、そういうのが得意な奴がいて、よく話を聞かされてたんだ」
そう言って、彼は少しだけ寂しそうな顔をした。
彼にも、私と出会う前の人生があったのだ。当たり前のことなのに、その事実に、胸の奥が少しだけちくりと痛んだ。
十分な休息を取った後、私たちは再び歩き始めた。
やがて、森の木々が途切れ、視界が開ける。
眼下には、谷間に抱かれるようにして存在する、小さな村が見えた。
屋根からは細い煙が立ち上り、畑を耕す人々の姿が小さく見える。
穏やかで、平和な光景。
けれど、今の私たちにとっては、油断のならない危険な場所でもあった。
「村に入る前に、いくつか約束してくれ」
彼は、真剣な顔で私に向き直った。
「まず、誰とも目を合わせるな。特に、衛兵や役人らしき人間とは。次に、フードを深く被って、絶対に顔を見せるな。そして、何があっても、俺から離れないこと。会話は全て俺がする。いいね?」
「……うん。わかった」
私は、こくりと頷いた。
彼が渡してくれた数枚の銅貨を、強く握りしめる。
私たちは、ゆっくりと坂を下り、村の中へと足を踏み入れた。
村の中は、土と家畜の匂いがした。
道端で遊ぶ子供たちの笑い声、鍛冶屋から聞こえる槌の音。
王都の喧騒とは違う、人々の生活の音が、そこにはあった。
すれ違う村人たちが、見慣れない私たちに訝しげな視線を向ける。そのたびに、心臓が凍りつきそうになった。けれど、隣を歩く彼の堂々とした態度が、私に少しだけ勇気をくれた。
私たちは、一軒の小さな雑貨屋に入った。
店番をしていたのは、腰の曲がった、人の良さそうな老婆だった。
「いらっしゃい。旅の方かい?」
「ああ。少し食料を分けてほしい。それと、妹に着せる、丈夫なマントもな」
彼は、ごく自然にそう言った。
“妹”。その言葉に、私の肩が少しだけ跳ねる。
老婆に勧められるまま、私は分厚く、丈夫そうな、焦げ茶色のマントを手に取った。
貴族の令嬢が着るような、繊細な刺繍も、美しい光沢もない。ただ、雨風を凌ぐためだけの、実用的な衣類。
それが、これからの私に相応しいものなのだろう。
彼が、干し肉と固いパン、そしていくつかの薬草を棚から手に取る。
その中に、黒いクルミの実に似た、見慣れない植物が混じっているのに、私は気づいた。
「……それは?」
私が小声で尋ねると、彼は老婆に聞こえないように、そっと耳打ちした。
「……髪の色を変えるのに使う。昔からの、民間の知恵だ」
会計を済ませ、私たちは一泊数銅貨で借りられる、馬小屋の二階にある干し草置き場へと向かった。
窓もない、薄暗い部屋。干し草の匂いが、鼻をくすぐる。
彼は、買ってきたクルミの実を石で砕き、薬草と混ぜ合わせ、粘り気のある黒い液体を作り始めた。
「……ティナ。こっちへ来て、座ってくれ」
促されるまま、私は干し草の上に腰を下ろす。
彼が、私の背後に回り込んだ。
フードを外され、私の薄紫の髪が、月明かりに照らされて空気にさらされる。
「……綺麗だな。本当に」
ぽつりと、彼が呟いた。
その声は、どこか名残惜しそうで、私の胸を締め付けた。
この髪は、エルヴェンス家に生まれた証だった。常にアリスと比べられる、劣等感の象徴でもあった。
けれど、彼だけは、いつもこの髪を綺麗だと言ってくれた。
彼の手が、私の髪に触れた。
びくりと、体が震える。
家族以外の男性に髪を触れられるなんて、初めてのことだった。
彼の指が、まるで壊れ物を扱うかのように、優しく、慎重に、私の髪を梳いていく。そして、先ほど作った黒い液体を、髪の根元から、毛先まで、丁寧に塗り込んでいった。
彼の真剣な息遣いが、すぐ耳元で聞こえる。
その距離の近さに、心臓がうるさいほどに鳴り響いた。
顔が熱い。きっと、この薄暗がりでも、耳まで赤くなっているのがバレてしまうだろう。
長い、沈黙の時間。
気まずいような、でも、このままずっと続いてほしいような、不思議な感覚。
やがて、彼は「……よし、終わった」と、小さな声で言った。
彼は、馬の水桶に汲んでおいた水を、手鏡のようにして私の前に差し出した。
そこに映った自分の姿を見て、私は息を呑んだ。
輝くような薄紫の髪は、どこにもない。
そこにいたのは、地味な、どこにでもいそうな、栗色の髪をした見知らぬ少女だった。
エルヴェンス家のティナの面影は、もうどこにもない。
寂しい、という気持ちが、最初に来た。
私という人間を証明していた、最後のものが消えてしまったような喪失感。
涙が、滲みそうになる。
けれど、彼は、そんな私の心を見透かしたように、言った。
「……悪くない。その方が、君自身の強さが際立って見える」
その、不器用な慰めの言葉に、私は思わず顔を上げた。
水面に映る彼の顔は、いつものように自信に満ちていて、でも、その瞳は、心配そうに私を覗き込んでいた。
ああ、そうか。
私は、もう一人じゃないんだ。
髪の色が変わっても、名前を失っても、私という人間を見てくれる人が、ここにいる。
「……うん」
私は、水面に映る“新しい自分”に向かって、力強く頷いた。
「……こっちの方が、今の私には、お似合いかもね」
そう言って笑うと、彼は、心底安心したように、ふっと息を吐いて、優しく微笑んだ。
その笑顔を見て、私は、これからどんな困難が待ち受けていても、この人と一緒なら、きっと乗り越えていけると、心の底から信じることができた。
名もなき二人の逃亡者。
私たちの、本当の旅が、今、この小さな村の、薄汚れた馬小屋から、静かに始まろうとしていた。
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