第5話
正午を過ぎ、本領を発揮し始めた陽射しが木立の間から差し込む。その隙間を縫うように、ユメオとルナは土や枯れ葉を踏みしめていく。
公園から脱出した二匹は、街から遠ざかることを優先し、人の気配がしない方向めがけて飛び続けた。結果、木々の生い茂る山中へと着陸したのだ。
ユメオの鼻先が、絶え間なくひくひくと動いている。山の匂い――湿った土、朽ち葉、樹液、そして遠くから漂ってくる獣たちの縄張りの印。その中から、少しでもイロハに近づくための道取りを捜していく。
「マスコットには、どんな残留思念があったのよ?」
山に降り立ってから沈黙し続けていた二匹だったが、ついにルナが口を開いた。
「公園でイロハがスマホを忘れてきたことに気づいた。取りに戻りたいと言うイロハに、面倒くさがる男。イロハのカバンを車に放り投げ、強引に乗り込ませた。マスコットは、その拍子に外れたようだ」
「車は、どっちへ」
「国道沿いを、まっすぐ北へ。K市のほうだろうか」
「ふん……なるほどねぇ」
納得したような、不満そうな、どちらとも取れる表情だ。ルナはしっぽをゆっくり左右に振り、ユメオのあとをついてくる。足取りに、不調そうな気配はない。が、ユメオは気がかりだった。
「ルナ、腹は大丈夫なのか」
「どうってことないわ。ワタシはこのアーマー着て、大気圏だって抜けてきてんのだから。酔いどれ親父の一撃ごとき、ノミより余裕よ」
ぺろっと腹のあたりを舐めてみせるルナ。気取った表情に変わりはないが、ご自慢の毛並みは縮れてきている。砂埃が混じり、薄汚れた猫の様相を呈している。
「アンタの方こそ、どうすんのよ」
「何がだ」
「きっと、保健所やら警察やらに連絡されてるわ。指名手配よ」
「はん、光栄なことだ」
「テレビとかにも映るわ。そしたら、ご主人も気づくかもね。帰ったらワタシら二匹とも、いないんだし」
「……」
「イロハ助けにきたつもりが、逆に迷惑かけてんじゃないの」
「いざとなれば、記憶を消して高跳びするさ」
「そんなキャラじゃないでしょ、クソ真面目なくせして。しかもアンタ、どこ行く気よ」
「……」
「ワタシと違って、ユメオは生粋のペットなんだから。他に行くところなんて、ないのよ」
心にも無い冗談で笑い飛ばそうとしたユメオは、ルナにたしなめられて、耳をしなだれる。
山中の小さな命たちの音が、騒がしかった。
首をふる。
「もう行こう」
「そうね。できるだけ、ヒトの少ない場所を行きましょ」
ルナも応じて、二匹は歩を進めた。
小川のせせらぎが聞こえる方角へ。少し湿った土、季節外れの枯れ葉。それぞれの肉球で踏みつける。
やがて二匹は、錆びついたレールを発見した。線路の間には雑草が生い茂り、枕木も朽ちかけている。どうも、使われなくなって久しい廃線のようだった。
「K県のほうへ向かっていそうだ」
「ちょうどいいわ、これに沿って行きましょう」
二匹は、廃線に沿って進む。
大きめのトンボが飛んできて、ユメオの鼻先に止まった。
渓谷の狭間に、大きな鉄橋……の残骸。よじ登るようにして、二匹は渡る。散歩コースのパイプよりは頑丈で、ユメオの体重もゆうゆうと支えた。
やがて、前方に黒い口を開けたトンネルが現れる。
線路は暗闇のなかへと続いていた。
随分と長いトンネルのようで、出口すら視認できない。廃線らしく一切の灯りを備えない真っ黒な坑内に、二匹は足を踏み入れる。一歩踏み進むたび、外界の音が遠のいていく。
静寂。
暑さすら拒むようにひんやりと、湿った石とコンクリートの匂いがユメオの鼻をついた。ぼんやり見えていた相方の顔は、数メートルも進まないうちに黒に染まった。
暗闇の中、ルナの瞳だけが緑色に光っている。
「なあ」
暗闇と静寂に消失することを防ぐかのように、ユメオが声をかけた。
ぼわんぼわんと反響し、不気味な声色になる。
「何よ」
ぼわんぼわん。
「イロハは、なんでいなくなったんだろうか」
ぼわんぼわん。
二匹の声が重なり合いながらトンネルを跳ねて、しばらくの間、沈黙が続いた。足音、コツコツ、規則正しく。
「誕生日、だからでしょ」
「え?」
ルナの答えに、ユメオが驚く。
「誕生日。ヒトが生まれた、記念日。連中、毎年お祝いするでしょ」
「ああ、あの奇妙な風習か」
「今日は、イロハの誕生日なのよ。今思い出したけど。部屋のカレンダーに書いてあったわ」
「なるほど。で、それがなんだというんだ?」
「誕生日旅行とかいう大きな散歩をすることがあんのよ、あいつらは。ユメオも、前にご主人につれてってもらったことがあるでしょ」
「あのときは長生きの祝いだと聞かされた記憶があるが」
「似たようなもんよ」
「そうか。イロハは、誕生日旅行か」
「かもね、って話」
沈黙。足音。
「なあ。だとすると、俺達のこの救出作戦に意味は――」
「だーかーら! かもねって話でしょ! アンタ、失態やらかしたからって急に自信なくしすぎ! あーもう、腹立つ!」
ルナがいきり立ち、金切り声がぼわんぼわん反響する。
暗闇の中、周囲一帯から怒られているような錯覚に陥り、ユメオはくぅん、と小さく鳴いた。
やがて、トンネルの向こうに、小さな光の輪が見えてきた。出口だ。
「……ほら、出るわよ」
先導して、ルナが歩を速める。少しずつ、自慢の毛並みが輪郭を帯びていく。
ユメオもそれに続いて、足を進めた。
外に出ると、陽射しが眩しく二匹を迎えた。ユメオは軽く二度、まばたきをする。
「……そうだな。誕生日だろうが何だろうが、あの金髪の男が胡散臭いのは変わらない。門が見せた残留思念を信じるとしよう」
「そうね。捜しましょう、引き続き。ちなみに、ワタシは見てないんだからね、その残留思念」
二匹は声を揃えて笑った。
その時、がさっ、と太い音が脇の茂みを揺らした。
飛び退く、二匹。
人間? こんなところにまで捜索を?
いや、様子がおかしい。
人間の匂いではない。ユメオは心の中で断じた。
ルナも背中の毛を逆立てる。何か、異様な、脅威が近づいているのを感じた。
やがて、二匹の眼前の枝葉を押しのけ、黒い塊が正体を表した。
体長1.5メートルはあろうかという、巨大なツキノワグマだった。
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