第22話 国家の夜明け
木漏れ日が古い狩人小屋の窓を静かに照らしていた。
賢者の塔の崩壊、瓦礫の下に埋もれた人々の叫び声。あの悪夢は今もジョルジュを苛んでいたが、この隠れ家での生活で、少しずつ心の傷は癒え始めていた。
「調子はどう?」
リズが茶を淹れながら声をかけた。
「少しずつ、だな」
ジョルジュは古文書から顔を上げた。
「この契約詠唱理論……本当に興味深い。『思い』そのものが魔法の発動条件になるなんて」
「そうでしょ? 使用者の『思い』を汲み取る魔法。上手くやると、悪用を防げると思うの」
リズは微笑んだ。
「あんたは〝死んだ〟ことで、かえって自由になったのよ。今度こそ、本当にあんたらしい技術を作りましょう」
その時、小屋の扉が軽くノックされた。懇意にしている商人が、定期的に外の様子を知らせに来るのだった。
中年の商人が頭を下げ、部屋へ入ってきた。
「中央地域の情勢はいかがですか?」
リズが尋ねる。
「魔導兵士部隊による制圧作戦が、ついに完了したようです」
商人は興奮を抑えきれない様子で報告した。
「王都北西部の山間部に潜伏していた最後の過激派拠点も、昨日降伏したとのことです」
「そうですか……」
ジョルジュの表情が複雑に歪んだ。自分の技術が、また人を制圧するために使われている。
「でも、血は流れていないようですよ」
商人が慌てて付け加えた。
「魔導兵士部隊の評判は上々です。規律正しく、住民に危害を加えることもない。むしろ『平和の守護者』として感謝されているとか」
「感謝……」
「ええ。中央の住民たちは『東部の方々のおかげで平和が戻った』と喜んでいるそうです」
リズとジョルジュは顔を見合わせた。技術の軍事利用という現実は変わらないが、少なくとも無駄な流血は避けられているようだった。
同じ頃、男爵邸──今や暫定的な帝都となった城下町の中心で、ザルエスは執務室で最終報告を受けていた。
「陛下、中央制圧作戦が完全に終了いたしました」
部隊長が深々と頭を下げた。既に部下たちは、ザルエスを『陛下』と呼び始めている。
「王都北西部の山間部に潜伏していた過激派最後の拠点を制圧。約五十名が投降いたしました」
「負傷者は?」
「我が軍、敵軍ともに負傷者なしです。魔導兵士部隊の接近を知るや、自主的に武装解除いたしました」
ザルエスは安堵のため息をついた。無血制圧──それは彼が最も望んでいたことだった。
「他の地域はどうだ?」
「中央西部の工業都市、南部の農村地帯、すべて平定完了です。組織的な抵抗は完全に終結いたしました」
「住民の反応は?」
「極めて良好です。規律を保った我が軍の行動に、感謝の声が相次いでおります」
部隊長は誇らしげに胸を張った。
「『東部の平和部隊』『秩序回復の恩人』と呼ばれております。占領軍ではなく、平和維持部隊として歓迎されています」
執務室には、中央各地から届いた感謝状が山積みになっていた。ザルエスはその一つを手に取った。
『東部の皆様のおかげで、私たちの街に平和が戻りました。規律正しい魔導兵士部隊の皆様に心から感謝いたします』
ザルエスの胸に、複雑な感情が湧き上がった。確かに混乱は収束した。過激派の暴動で苦しんでいた民衆を救った。それは間違いなく良いことだった。
しかし、東部が元々平穏だったことを、彼は知っている。商人ギルドの巧妙な戦略により、東部だけが混乱を免れていた。自分は東部の平和を作ったわけではない。
それでも、中央制圧は確実に自分の功績だった。過激派に苦しめられていた住民たちを救ったのは、自分の決断と魔導兵士部隊の力だった。
「よくやってくれた。諸君の働きにより、王国全土に平和が戻った」
ザルエスは部隊長の肩に手を置いた。
「これで胸を張って、新しい国の建設に取りかかれる」
「ありがたきお言葉です。我々一同、陛下の理想実現のため、命を捧げる所存です」
部隊長が退出した後、ザルエスは一人窓の外を見つめた。
(混乱収束の大義は果たした。もう後戻りはできない)
中央住民からの感謝、部下たちの絶対的忠誠、そして東部貴族たちの支持。すべてが帝国建国を後押ししている。
(ジョルジュ……お前の技術で混乱を収め、お前の理想を実現する国を作る。これがお前への最高の供養だ)
決意を新たに、ザルエスは午後の重要な会議に向かった。
男爵邸の大広間は、かつてないほどの熱気に包まれていた。東部貴族十五名と商人ギルド幹部十名が一堂に会し、歴史的な決議を行おうとしている。
「皆様、お忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます」
伯爵が立ち上がり、会議の開始を宣言した。
「本日は、我々東部の未来を決する重要な議題について話し合います」
満座の貴族と商人たちが、緊張した表情で伯爵を見つめている。
「まず、商人ギルド連合会長より、この一ヶ月の成果について報告していただきましょう」
会長が立ち上がった。初老の男性だが、その目には鋭い知性が宿っている。
「結論から申し上げます。我々の戦略は完璧に成功いたしました」
彼の声は自信に満ちていた。
「東部は一貫して平穏を保ち、中央および西部の混乱との対比が鮮明になりました。結果、東部統治の優秀性が王国中に知れ渡っております」
貴族たちが満足気に頷いている。確かに、東部だけが平和を保っていたという事実は、政治的に大きな意味を持っていた。
「さらに、ザルエス様による中央制圧作戦の成功により、我々の軍事力も証明されました」
「経済面はいかがですか?」
ある貴族が尋ねた。
「独立採算は完全に確立済みです」
会長は胸を張った。
「むしろ中央との通商で利益が拡大しており、近隣諸国からの投資も活発化しています。経済的な独立に何の問題もありません」
続いて伯爵が政治分析を行った。
「中央制圧により、我々の統治能力が王国中に知れ渡りました。もはや東部が旧王国体制に戻る理由は皆無です」
伯爵の声には、確固たる信念が込められていた。
「東部独立こそが、全王国の安定につながるのです」
「──では、正式に議題に入ります」
伯爵は厳かに宣言した。
「ザルエス・ドレイヴ殿の皇帝即位と、帝国建国について、皆様のご意見を伺いたい」
会場が静まり返った。歴史の転換点に立っているという緊張感と高揚感が、全員を包んでいる。
最初に口を開いたのは、年配の子爵だった。
「ザルエス殿の功績は疑いようがありません。混乱収束と平和回復の大功労者として、帝位にふさわしい方です」
「賛成です」
別の男爵が続いた。
「東部の繁栄も、ザルエス殿の手腕あってのこと。我々は喜んで新皇帝をお支えいたします」
次々と賛成の声が上がる。商人ギルドの幹部たちも、全員が支持を表明した。
「それでは採決に移ります」
伯爵が宣言すると、二十五名全員が手を挙げた。満場一致だった。
「ザルエス・ドレイヴ殿の皇帝即位と帝国建国について、満場一致で可決されました」
会場に拍手が響く。ザルエスは立ち上がり、深々と頭を下げた。
「皆様の期待にお応えできるよう、全力を尽くします」
しかし、彼の心の奥には複雑な思いがあった。
(私は本当に、この地位にふさわしいのか? 東部の平和は商人たちが作り出したものだ。私がしたのは中央制圧だけ……)
だが、民衆からの感謝の声が、その迷いを打ち消した。
(それでも、混乱に苦しんでいた人たちを救ったのは事実だ。この責任から逃げるわけにはいかない)
翌週、王都の宰相邸で、秘密の会談が行われていた。東部貴族連合での満場一致可決を受け、ザルエスと伯爵は正式承認を得るため王都へ向かったのだった。
書斎には三人の人物がいた。伯爵、宰相、そしてザルエス。王国の運命を決める最後の調整である。
「お疲れさまでした」
宰相が穏やかに微笑んだ。
「中央制圧、見事な手際でした。住民からの感謝の声も素晴らしい」
「ありがとうございます」
ザルエスは緊張していた。これから正式に王国分割が決定される。
「大公殿下より、帝国建国の正式承認を賜りました。こちらが恩賜目録でございます」
宰相は封蝋された書簡を取り出した。
「動乱制圧の功績により、完全に正当な独立です。新王国も、帝国との友好関係継続を強く希望しております」
ザルエスは安堵のため息をついた。ついに、正式な承認を得られたのだ。
「領土範囲について確認させていただきます」
宰相は地図を広げた。
「東部全域が帝国領土として確定。中央・西部・南部は大公殿下の新王国として再編されます。詳細は目録に記載されております」
明確な国境線が引かれ、両国の領土が確定した。
「経済関係についてですが」
伯爵が口を開いた。
「これまで以上の協力が可能でしょう。帝国の技術力と新王国の資源・人口、互いに補完関係にあります」
「おっしゃる通りです」
宰相は頷いた。
「平和的共存こそが、両国の利益です。通商協定も、他国以上の優遇条件で締結いたします」
すべての調整が完了した。ザルエスは、ついに最終決断の時を迎えていた。
宰相と伯爵は、ザルエスの言葉を待つ──
「大公殿下をはじめ、諸侯の皆様の推戴をありがたく受け入れ、重責を務めさせていただきます」
ザルエスの声は、確固たる決意に満ちていた。
中央制圧の功績、民衆からの感謝、そして東部の繁栄。すべてが彼に皇帝としての資格を与えていた。
「来月の建国宣言で、正式に帝国の成立を宣言いたします」
歴史的な密約が、静かな書斎で交わされた。
一週間の帰路にて男爵邸に戻った夜。ザルエスは一人バルコニーで夜空を見上げていた。
来週には建国宣言を行う。新帝都としての城下町大改修、帝国憲法の最終草案、魔導兵士部隊を中核とした帝国軍の正式編成──すべての準備が着々と進んでいる。
中央の混乱を収めた功績で、皇帝になる資格を得た──
それは間違いのない事実だった。過激派の暴動で苦しんでいた住民たちを救ったのは、自分の決断と魔導兵士部隊の力だった。
(ジョルジュの『誰でも魔法を』の理想を、帝国で実現する。これが私の歴史的使命だ)
遠い空に、星が輝いている。その光は、新しい時代の始まりを告げているようだった。
城下町では、既に建国祭の準備が始まっている。街の人々の顔には、希望と期待が満ちていた。
「俺たちの皇帝陛下だ」
「混乱を収めてくれた救世主」
「技術で豊かな国を作ってくれる」
民衆の声が、夜風に乗って聞こえてくる。
中央からも支持の便りが届いていた。制圧された地域の住民からも、感謝と期待の声が寄せられている。
「東部の方こそ、真の指導者だ」
「あの方が王になってくれれば、きっと平和な世の中になる」
すべてが理想的に進んでいた。まるで運命に導かれるように、帝国建国への道筋が整っている。
しかし、その心の奥底に、微かな違和感があることを、彼は意識していなかった。すべてが計画通り過ぎること。伯爵の影響力の大きさ。本当に自分が主導権を握っているのか──
月明りに照らされたバルコニーで、ザルエスは静かに夜空を見上げた。
その答えを問う暇もなく、東部の夜明けは近づいていた。
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