第3章

第14話 嵐の前兆

 工房が襲われてから三ヶ月が過ぎた。

 ガンドの工房は、ようやく以前の落ち着きを取り戻していた。壊された扉は新しい頑丈なものに替えられ、荒らされた内部も元通りに整理されている。作業台には再び精密な工具が並び、棚には新しく調達した材料が整然と置かれていた。


 しかし、ジョルジュの心には、まだ深い傷が残っていた。


「今日の作業はここまでにしよう」


 ジョルジュは手にしていた魔石を作業台に置いた。新しい魔導具の基礎研究を続けてはいるが、以前のような情熱は失われている。宝珠への夢は、あの夜の襲撃とともに粉々に砕け散った。


「無理をするな」


 ガンドが金槌を置いて振り返った。


「技術を奪われたからといって、お前の頭の中の知識まで奪われたわけではない」


「でも、ガンドさん……」


 ジョルジュの声は力がなかった。


「俺の理想は、何だったんでしょうか。誰でも魔法を使える世界なんて、所詮夢物語だったのかもしれません」


「そんなことはない」


 ガンドは断言した。


「理想を持ち続けることこそが、技術者の使命だ。200年やってきて、それだけは確信している」


 リズが茶を淹れながら口を挟んだ。


「でも、現実は厳しいわね。技術は作り手の意図を離れて一人歩きするものよ」


 その時、工房の扉が勢いよく開いた。


「ジョルジュ! 大変だ!」


 ダリオが息を切らして飛び込んできた。いつもの軽快さはなく、顔は青ざめている。


「どうしたんだ、そんなに慌てて」


「王都で……王都で凄いことが起きてる!」


 ダリオは荒い息を整えながら言った。


「商人が街に戻ってきて、みんなに話してるんだ。魔導士ギルドが襲われたって!」


「何だって?」


 ジョルジュとガンドが同時に立ち上がった。


「詳しく話せ」


 ガンドが厳しい表情で促した。


「えーっと……」


 ダリオは記憶を辿るように眉を寄せた。


「王都で民衆が決起して、『マナを我らが手に』って叫びながら魔導士ギルドを襲撃したんだって。魔導具店も略奪されて、高価な魔石が盗まれたらしい」


「マナを我らが手に……」


 ジョルジュの顔が青ざめた。


「それに、『誰でも魔法を使えるはずだ』『貴族だけの特権を許すな』って言ってる連中もいるとか」


「まさか……」


 ジョルジュの声は震えていた。


「俺の技術が関係してるのか?」


「分からない。でも、商人の話だと、『適性がなくても魔法を使える方法がある』って噂が広まってるらしいんだ」


 ガンドは深刻な表情で腕を組んだ。


「技術というものは、作り手の意図を離れて一人歩きするものだ」


「ガンドさん……」


「お前の理想が歪められて利用されているのかもしれん。それも、お前の知らないところで」


 ジョルジュは頭を抱えた。


「俺の『誰でも魔法を使える世界』が……こんな混乱を招くなんて」


「まだ断定するのは早いわ」


 リズが慰めるように言った。


「しかし、もし本当なら……」


 ダリオが恐る恐る口を開いた。


「他にも聞いた話があるんだ。西部の商業都市でも同じような事件が起きてるって」


「西部でも?」


「ああ。でも変なのは……」


 ダリオは首をかしげた。


「この東部では、そんな暴動は一件も起きてないんだ。不思議だよな?」


 ジョルジュ、ガンド、リズは顔を見合わせた。確かに不自然だった。なぜ東部だけが平穏なのか。


「商人たちは何て言ってる?」


 リズが尋ねた。


「『東部は統治が行き届いてるから』だって。でも、なんか釈然としないんだよな」


 ガンドが深く息を吐いた。


「いずれにせよ、王国は大きく揺れ始めておる。お前の技術が関わっているかどうかに関係なく、時代は変わろうとしているのかもしれん」


 ジョルジュは工房の奥を見つめた。あの夜、大切な宝珠技術が奪われた場所だった。


「俺は……俺は何をすればいいんでしょうか」


「今は待つしかない」


 ガンドは重々しく口を開いた。


「嵐が過ぎるのを待って、その後でお前にできることを考えるんだ」


 しかし、この〝嵐〟は、ジョルジュの想像を遥かに超える規模で王国全土を席巻しようとしていた。


 その頃、王都では前代未聞の騒乱が続いていた。


「マナを我らが手に!」


 大通りを埋め尽くした群衆の叫び声が、石造りの建物に反響している。


 魔導士ギルドの本館前には、農民、職人、商人──普段は魔法とは縁遠い人々が結集していた。彼らの手には農具や工具が握られ、その目には怒りと希望が混在していた。


「貴族だけの特権を許すな!」

「俺たちにも魔法を使う権利がある!」


 群衆を扇動する声が次々と上がる。


「聞いたか? 東部では、マナがない者でも魔法を使える技術があるそうだ!」


「本当か?」


「ああ、商人から聞いた話だ。『宝珠』とかいう道具を使えば、誰でも魔法が使えるんだって!」


 群衆がざわめいた。正確な技術情報は伝わっていないが、〝可能性〟だけが一人歩きしている。


「だったら、なぜ俺たちには教えてくれないんだ?」

「ギルドが隠してるんだ!」

「魔導具店にだって、そんな道具は売ってない!」


 怒りの声が高まる中、ついに群衆は動き出した。ギルド本館の重い扉が打ち破られ、中から悲鳴が上がった。魔導士たちは奥の部屋に避難し、民衆は館内の魔導具や魔石を片端から持ち出していく。


「これで俺たちも魔法が使える!」


 しかし、奪われた魔導具の大部分は、適性のない者には使えないものばかりだった。それでも人々は希望を捨てず、必死に詠唱を試みる。


 だが、期待とは裏腹に、魔法は発動しない。やがて失望が怒りに変わり、さらなる暴動へと発展していった。


 同様の事件は、西部の商業都市でも発生していた。


「魔法解放!」

「マナの大小による差別を許すな!」


 各地で『マナを我らが手に』運動が拡大し、既存の魔導士と一般民衆の対立が激化していく。


 そして、混乱に乗じて粗悪な模造品も出回り始めた。『誰でも魔法を使える宝珠』と称する偽物が、法外な値段で売りさばかれている。効果はないどころか、使用者に害をもたらすものも少なくなかった。


 王国中央政府は、急激に拡大する混乱に対応しきれずにいた。各地の総督からは連日、治安悪化の報告が届いている。


 しかし、東部だけは不思議なほど平穏だった。


 男爵邸の書斎で、ザルエスは各地からの報告書を読み上げていた。


「王都での暴動、西部三都市での魔導士ギルド襲撃、中央地方での治安悪化……」


 執事が神妙な面持ちで頭を下げている。


「これに対し、我が東部地域では一件の暴動も発生しておりません」


「そうだな」


 ザルエスの口元に、微かな笑みが浮かんだ。


「我々の統治が、いかに優れているかの証拠だ」


 実際には、商人ギルド連合の巧妙な戦略があった。中央・西部では「魔法解放」を煽動し、東部では『秩序維持』を徹底する。この二重戦略により、東部の安定性が際立って見えるのだ。


「閣下」


 執事が恐る恐る口を開いた。


「この状況は、我々にとって絶好の機会ではございませんか?」


「どういう意味だ?」


「中央政府の統制力が低下する中、東部の安定性を示すことができます」


 ザルエスは立ち上がり、窓の外を見つめた。平和な城下町の風景が広がっている。


「その通りだ。これは絶好の機会だ」


 彼の頭の中では、既に計算が始まっていた。中央政府の混乱、東部の安定、そして──宝珠技術という切り札。


「しかし……」


 ザルエスは振り返った。


「もはや隠している場合ではないかもしれない」


「隠すと申しますと?」


「いや、こちらの話だ」


 ザルエスは決断していた。宝珠技術の存在を、いよいよ伯爵に明かす時が来た。この混乱の中でこそ、その真の価値を理解してもらえるだろう。


「伯爵様との会談を申し込め。緊急の案件があると伝えろ」


「承知いたしました」


 ザルエスは再び窓の外を見つめた。王国全土が混乱する中、東部だけが平穏を保っている。この状況こそが、自分の政治的価値を最大限に示す機会だった。 そして、宝珠技術という決定的な切り札を加えれば──



 翌日の夕刻、ザルエスは伯爵邸を訪れていた。

 書斎には、いつものように重厚な雰囲気が漂っている。しかし今夜は、普段とは違う緊迫感があった。


「急な申し出でしたが、お時間をいただき、ありがとうございます」


 ザルエスは深々と頭を下げた。


「いやいや、こちらこそ」


 伯爵は穏やかに微笑んでいるが、その目は鋭い。


「実は……」


 ザルエスは一瞬躊躇した。しかし、もう後戻りはできない。


「閣下にお話ししなければならないことがございます」


「ほう?」


「革命的な技術を入手いたしました」


 伯爵の眉が動いた。


「技術とは?」


 ザルエスは懐から小さな袋を取り出した。中から現れたのは、美しく光る球体──宝珠だった。


「これは……」


「『宝珠』と呼んでおります。魔法適性の低い者でも、確実に魔法を使用可能にする道具です」


 伯爵の目が見開かれた。ザルエスは宝珠の基本原理を簡潔に説明し、実際にその効果を実演してみせた。 従者に宝珠を持たせ、簡単な詠唱をさせる。瞬間、従者の手に光が灯った。


「これは……!」


 伯爵は息を呑んだ。しかし、その表情は驚嘆から、瞬時に鋭い洞察へと変わった。


「待て、ザルエス殿」


 伯爵は宝珠を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。


「この技術と、昨今の『マナを我らが手に』暴動は……関係があるのか?」


 ザルエスの背筋に冷たいものが走った。さすがは伯爵、一瞬で核心を突いてきた。


「それは……」


「王都や西部で『誰でも魔法を使える方法がある』という噂が広まっている。そして今、卿がその技術の実物を私に見せている」


 伯爵の声は静かだったが、その鋭さにザルエスは動揺を隠せなかった。


「偶然にしては、あまりにもタイミングが良すぎる」


「実は……」


 ザルエスは一瞬考えを巡らせた後、慎重に口を開いた。


「商人ギルド連合が、独自のルートで入手したものでございます」


「商人ギルドが?」


「はい。彼らには独自の情報網がございまして……新技術の動向についても、かなり詳しく把握しているようです」


 ザルエスは表面上は平静を装いながら続けた。


「どうやら、この技術を研究していた者がおり、商人たちがその価値を見抜いて……適切な対価で譲り受けたということです」


「なるほど」


 伯爵は頷いた。表面上はザルエスの説明を受け入れているが、その目には「全てを理解している」という光があった。


「それで、その技術情報の一部が漏れて、各地の騒動に繋がっていると?」


「残念ながら、そのようです。正確な技術は我々が管理しておりますが、断片的な情報や粗悪な模造品が出回っているようで」


 ザルエスは苦い顔をした。


「商人ギルドも、情報統制の重要性を痛感しております」


「……さすがだな、ザルエス殿」


 伯爵は薄く微笑んだ。


「商人ギルドの眼力と、卿の先見性の賜物だ」


 両者とも、真実を知りながら、政治的に適切な〝物語〟を共有していた。


「中央や西部で混乱が生じ、東部だけが平穏を保っている。そして今、その平穏を支える技術的基盤を私に開示なされた」


 伯爵の評価に、ザルエスは内心で安堵した。


「恐縮でございます。この技術の真の価値を理解していただけるのは、閣下をおいて他にございません」


「見事だ、ザルエス殿。なぜもっと早く教えなかった?」


 称賛の響きがあったが、その後で伯爵の表情が微かに曇った。


「慎重を期しておりました。この技術の影響力は計り知れませんので」


「その通りだ。結果は確かに素晴らしい。しかし……」


 伯爵は宝珠を手に取りながら、声のトーンをわずかに変えた。


「卿は、私をもっと頼ってもよいのだよ。何しろ卿は、我が家門の一員なのだから」


 穏やかな言葉だったが、その真意は明らかだった。


「恐れ入ります」


 ザルエスの背筋に、冷たいものが走った。


「今後は、重要な事柄については、必ずご相談させていただきます」


「そうしてくれ。独断で行動されると、せっかくの妙手も台無しになりかねない」


 伯爵は微笑んでいたが、その目は笑っていなかった。


「卿の才覚は認めるが、全体の戦略を見据えた判断は、やはり経験が必要だ」


「まったく、おっしゃる通りでございます」


 ザルエスは深々と頭を下げた。結果を評価されながらも、同時に釘を刺されている。


「セリーナとアルフレッド殿の件もあることだし、我々の信頼関係こそが、東部の結束の要だ。一人で抱え込まず、ぜひ相談してもらいたい」


「今後、気をつけます」


 ザルエスは伯爵の意図を理解した。結果的には成功したが、プロセスに問題があった。重要な駒が勝手に動くことは、全体戦略にとって危険なのだ。


「これで全てが変わる」


 伯爵の目には再び野心の光が宿った。


「東部の未来が……いや、王国の未来が見えてきた」


「これほどの技術があれば、既存の政治バランスなど……」


 伯爵は言葉を途中で止めたが、その含意は明らかだった。


「閣下……」


 ザルエスは複雑な気持ちで震えていた。自分が見ている視界以上に、伯爵は遥か彼方を見ているのではないか──


「近日中に、もう一度詳しく話し合おう」


 伯爵は立ち上がった。


「この技術があれば……まあ、詳細は次回に。今度は、計画の段階から全てを相談してもらいたい」


 最後の一言に、ザルエスは身を引き締めた。


「承知いたしました。必ずお約束いたします」


 宝珠技術という決定的な切り札を得た今、東部の未来は明るい。しかし同時に、伯爵の統制下で動かなければならないことも明確になった。

 政治的野心の実現は、思った以上に複雑な道のりになりそうだった。



 一方、ガンドの工房では、ジョルジュが作業を続けていた。


 しかし、その手は以前のように滑らかに動かない。集中力も続かず、何度も手を止めてはため息をついている。


「俺の理想は、どこへ向かっているんだ……」


 窓の外には、変わらぬ森の風景が広がっている。しかしジョルジュの胸には、拭いきれない孤独と無力感が残っていた。


 夜風が工房の窓を揺らし、ロウソクの炎だけが静かに揺れていた。

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