第26話 調査
「いいから、いいから。愛は人を盲目にさせることを身をもって体験したんだ。もう同じ轍は踏まないさ。どうぞ中に入ってください。資金簿を見れば、すぐに意味がないってわかりますよ」
私の言葉を遮り、ガラニスさんは事務室へと歩を返されました。
いったい、あの方の目には私がどのように映っているのでしょう……。
いいえ、
カリオン先生の潔白さえ明らかになれば、この食い違いもきっと説明できるはずです。それまでは、余計な言葉を重ねぬほうが賢明でしょう。
私は胸の奥にその思いを押しとどめ、渋々その背を追いました。
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視点表示 ♤:ジュナ ♡:フリージア ♧:セピア
26 -調査
♡
事務室に足を踏み入れると、すぐ左手の入隅には、カリオン先生が身につけていた鍵輪がきちんと保管されていた。
中央には長机が一本置かれ、その上には書類が山のようにどっさりと積まれています。一人でこれを処理なさっているのでしょうか……とても大変な作業の最中に、こうしてお邪魔してしまったようです。
その奥にはもう一間あり、半ば開いた扉の向こうからは、指先で書類をめくる微かな音が響いてきます。
やがてガラニスさんが扉を開いてこちらにおいでになると、手には帳簿が握られていました。
「お待たせしました。カリオン先生の資金の流れを書いた帳簿です。何度も言いますが、お読みになってもきっと役立つことは何も記されていませんよ。
僕は向こうの部屋で書類整理をしないといけないので、読み終えられたらそのままここに置いといてください」
「ありがとうございます」
私はそう言って、奥の部屋へ向かわれるガラニスさんに頭を下げました。
資金簿は三年ヶ帳になっており、昨年からカリオン先生の資金の流れが記されていました。
支出項目は龍石消耗品費、龍造人形維持費、龍造人形開発費、龍造人形稼働実験費、天候操作許可料、修学費、交通費、輸送経費、儀式運営費、儀典費、給与……収入項目は龍造人形運用益、寄贈、献金、奉納……などなど。各項目には龍貨単位(銅・銀・金)が記され、用途だけでなく受領者や受領時刻、支払い方法に至るまで、細かく書き添えられていました。
思わず息を呑みます。
これほどまでに細やかに仕分けされているとは……ガラニスさん、なかなか几帳面なお方のようですね。
ヴァルファルド家は代々清貧を是としてきました。あまり誇れることではありませんが、数字には自ずと強くなります。どの費用を削り、どこに資金を回すか、その見極めも自然と鍛えられてきます。
書類を指でなぞりながら数字を追っていくと、どれも過剰な偏りはなく、基準から大きく外れるものもありません。
龍造人形の運用も、火龍騎士団で兄に代わって帳簿を作成してきた経験がありますから、金額を見ればおおよその妥当性は感覚で判断できます。そこから見ても、今回の数字はどれも標準的でした。
ただし、給与の欄だけは目を引きます。
ほかの項目が
費目:天候操作許可費
金額:銀五枚
受領者:宮廷役人 マルス・クセナキス
日付:聖暦五〇〇年三月四日〜六日
支払方法:ロゴス手形〈兌換済〉
用途:授業の一環として朱鯉池周辺に大雨を降らせるため。
備考:天候操作により朱鯉池西崖が一部崩落。(損傷は軽微、使用に影響なし)
費目:交通費
金額:銀二枚
受領者:南端西区馬車組合
日付:聖暦五〇一年十月十五日
支払方法:現金
用途:西区孤児院視察のため。
備考:西区の治安不安に伴い、聖焔教会騎士および龍造犬を護衛として同行。(追加費用含む)
と細かく記されているのに対し、給与だけは
費目:給与
金額:銀九十枚/うち、銀六十枚(浄化)
受領者:カリオン・ニコマコス自身
日付:聖暦五〇一年十月二十日
支払方法:現金
用途:職務報酬
備考:——
金額の欄には、見慣れぬ一語が添えられています。
(浄化)
それは一体、何を指すのでしょうか。
「まだいらしたのですか。もう
奥の部屋から両腕いっぱいに書類を抱えて出てこられたガラニスさんは、どこか戸惑いと感嘆をまぜた笑みを浮かべながら、机の上にもう一つの山を築こうとしていました。
私も椅子から立ち上がって書類の山を支えながら、思わず口を開いてしまいました。
「長くお邪魔して申し訳ありません。
……しかし、ガラニスさん。ここまで細かく書き込む必要があるのでしょうか」
最後の問いかけに、ガラニスさんは驚いたように目を丸くした後、用心深げにひそめていた眉をわずかに緩めたように見えました。
「手伝ってくれてありがとう。フリージアさんのおっしゃる通り、帳簿にここまで記入する必要は本当はないんです。
――おっと、湯が湧いたようです。南蛮から取り寄せた珈琲はいかがですか?」
反射的に頷いたものの、一度も珈琲なるものをいただいたことがありません。とても苦いとお聞きしているのですが大丈夫でしょうか。
ガラニスさんはにっこり微笑み、湯気を立てる陶器を私の手元に置いてくださいました。
「でもまあ、私はこういう細かい仕事で評価されてきましたから。ある意味、必要なことなのかもしれませんね」
陶器の取手を掴み、初めて口にする珈琲を、それはそれは慎重に啜ります。
こ、これは、本当に飲み物なのでしょうか……。苦さを感じる以前に、舌が予期せぬ刺激にむせ返りそうになります。
もしこれを出したのがセピアなら、胸ぐらを掴んでいたかもしれません。
強張った表情筋で無理やり微笑みながら、もう一つ気になっていたことを尋ねました。
「お、美味しいですね……。
あの……給与の金額の(浄化)とは、どういう意味なのでしょうか」
ガラニスさんはわざわざ湯気で曇った眼鏡を拭いていた手を止め、こちらの表情の変化を楽しむかのように、少し間を置いて話されました。
「それはですね。カリオン先生があらかじめ給与の三分の二の受け取りを辞退されているんです。
その分は西区にある冬期孤児院支援の寄付に回してほしい。そう仰っていました。
カリオン先生は本当に立派な人格者ですよ。あなたが熱心になられるのも納得できます」
♦︎♢♦︎
♡
私は頂いた珈琲をどうにか最後の一滴まで胃に流し込み、挨拶を済ませていそいそと事務室を後にしました。速足で食堂へ向かい、水差しを手に取って一気に飲み干すと、ようやく少し落ち着いた心持ちになりました……。
——しかし、これでようやく得心がいきます。
どこに、自分の給与の三分の二も孤児院に寄付する人が、華王を売り渡してお金儲けをするでしょうか。
一瞬、セピアの人を見下したような顔が脳裏をよぎりますがこれはあの人の問題ではありません。
私がどこかでカリオン先生を疑っていた事実は、消せないのですから。
先生を一度でも疑った自分が許せません。
一刻も早く、ジュナ様にご報告しなければ。
♦︎♢♦︎
♤
「今日はさすがにキツかったな。手のあざ、これ絶対後に残るな」
従者兼、武術指南役のサルウィンとの鍛錬を終え、ジュナは訓練場の更衣室にある長椅子に疲労の重みでだらしなく膝を立てて横たわり、まだ痺れる手をぼんやりと仰ぎ見ていた。
おそらくカリオン先生は聖焔教会から馬車で遠くへ出かけてしまったのだろう。今朝から
この途切れ方が最悪で、鍛錬中に正気のない間抜けな顔を晒してしまったことがサルウィンの逆鱗に触れたのだ。
うっ……
思い返すだけで吐きそうになる。
自分の体の上に麦俵が幾つも積み重なったかのようで、しばらく身動きが取れそうにない。だから、ここで少し目を閉じて体を休めたとしても……品格を損なうことにはならないはず……
ジュナはあげていた腕をそのまま目元にかぶせ、柔らかい長椅子に深く頭を預けた。
呼吸するたび、体が少しずつリセットされていくように体に心地よい疲労がじんわり広がって、全身の筋肉が溶けてゆく。
体の澱みが洗い流されていくようで最高に気持ちがいい……。
「……そんな……、なら……めれば……」
遠くで、二人の問答する声が聞こえているような気がした。
重い瞼をあげると、薄ぼんやりとした視界の先で、二つの顔がこちらを覗き込んでいるようだった。
「おはようさん、ずいぶんぐっすり眠ってたな」
声が意識に溶け込み、ぼんやりした視界の奥で、現実の輪郭が少しずつ立ち上がっていく。
「申し訳ございません、このような場所まで押しかけて……」
目の前の景色が鮮明になり、フリージアさんとセピアが、じっとこちらを見ているのが目に入った。
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概算物価一覧 (※あくまで目安です)
<銅 : 銀 : 金 = 1 : 10 : 200>
・りんご1個=銅1枚
・パン1斤500g=銅2枚(※4話『聖焔教会』→飢える者にはパンを、退屈する者には闘技場で”死の臨場感”を。貧困層向けに無料券1斤500g)
・宿泊1泊(簡易宿)=銅3〜4枚
・小型道具(ナイフ・手袋など)=銅10枚=銀1枚
・馬1蹄=銀20枚=金1枚(まあ、維持費がめっちゃかかるんですけどね)
・専門書(学術書)=金1枚(※3話『龍の子』→父クラウンからジュナに贈られた龍造人形に関する技術書も大体これぐらい)
・
貧困層は今日生きるための日銭に縛られ、蓄えは皆無。彼らは金貨など一度も見たことがない。たぶん
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