第23話 雨音

「すぐにそこから離れてください!そこは台地の縁で、崖がすぐ近くです。転げ落ちたら命に関わります」

カリオン先生の警告に、思わず崖の方に視線が吸い寄せられていました。


はっとしてセピアに振り返ったときには、もう姿がありません。

私もこれ以上話すつもりはなかったので蔵に向かい、さっきより少し速めに小走りで進みます。

どうしてさっき、セピアの圧に押されて弁解がましいことを言ってしまったのでしょう。胸の内の苛立ちを抑えるため、できるだけ体を動かすよう努めました。

======================================

視点表示 ♤:ジュナ ♡:フリージア ♧:セピア


23 -雨音


錠前を外して中に入ると、思いのほか清潔に掃き清められておりました。

礼拝服やタオルに混じって、礼拝堂で灯火具を吊るしていたらしい鎖がいくつも束ねられたまま梁に掛けられています。

朱鯉池しゅりいけでも、儀式が頻繁に執り行われているのでしょうか。

後学のために覚えておけばいずれ役に立つこともあるかもしれません。儀式と貴族社会の結びつきを軽んじ、無知を晒しては問題です。

何事にも関心を寄せ己を磨く姿勢を怠らぬよう、常に心に留めておかねばなりません。


壁際にある木棚から手触りのいいタオルを一枚取り、下着まで染み込んだ水気を丁寧に拭っていると、遠い空の上でかすかな雷鳴が響いてきました。

私は動きを止め、耳を澄ませます。やがて、激しい雨が蔵の屋根を叩く音にまじって、微かにカリオン先生の声が届いてきました。


「すごい雨だ、急いで訓練場に戻りましょう!人と遭遇するかもしれませんが、声をかけられても無視してくださいよ。さあ、僕について来てください」


朱鯉池から柵門へと駆けていく学友たちの足音が遠ざかっていきます。

私は古びた錠前に鍵を差し込み、固くてなかなか回らない鍵穴に悪戦苦闘しながら、手元を何度も確かめました。

試行錯誤の末、ようやく鍵がかかり、ほっと息をついて前を向いたときでした。


雨に打たれながら、一体の龍造犬シェパードがじっとこちらを見つめているのです。耳をぴんと立て、合図を待つように座っています。


どうしてこんな場所にいるのだろう。持ち場を離れて迷い込んだのでしょうか?


「ここは朱鯉池ですよ。持ち場にお帰りなさい」


他人の龍造犬に通じるはずもないと知りながら、つい声をかけてしまいます。

ところが意外にも、龍造犬は私の声に反応してすくっと立ち上がり、尻尾を垂直に伸ばしました。

一瞬、警戒して身構えましたが——前足をぐっと伸ばし、胸を地面に伏せてお尻をぴょこんと上げる仕草を見せます。

全身で「ねえ、遊ぼうよ」と弾むように揺れるその姿につられて、笑みがこぼれました。


「ふふ。ずいぶん可愛らしい龍造犬さんですね。こんなに人懐っこい龍造人形は初めてです」


褒められたことを理解しているかのように、龍造犬は私の足元をぐるぐると回りながら、どこか誇らしげに尻尾を揺らします。


ふと龍造犬が雨空を見上げたかと思うと、再びこちらを見つめ、一瞬ためらったようにぽかんと口を開けました。

するとその口の奥から、小さな傘がするりと現れたではありませんか。


「もしかして、これを貸してくださるのですか?」


私の言葉に応えるように、尻尾が勢いよく振られます。

「とってもいいよ」という合図でしょうか。

慎重に傘を抜き取り、龍造犬にも見えるようにそっと開いてみせると、やや小ぶりながらも雨をしのぐには十分でした。


「ご親切にありがとうございます」


気立てのよい龍造犬の頭をしばらく撫で、礼を述べてから傘をさして外に出ます。


雨脚が強まっても、朱鯉池の鯉たちは平然と水面を泳いでいます。

もしかすると、彼らにはそもそも「雨」というものを理解する感覚すらないのかもしれません。だからこそ、あの静かな泳ぎを保てているのではないでしょうか。


「私とは違う、などと言ったら……鯉に失礼ですね」


私は周囲が気づくことに一周遅れてしまうことが少なくありません。慌てて取り戻そうとしても、精一杯になって息が詰まることもありました。そんなとき、いつも兄が私を引き上げてくれるのです。


「フリージアはいつも、『〜すべき』『〜しなければ』って責任ばかり抱え込むから、視野がそこにしか向かなくなるんだ。

いいかい、フリージア。一度きりの人生だよ。楽しまないともったいないじゃないか。フリージアが副伯を継いでも後ろには僕がいるんだ。どーんと構えていればいい。

大丈夫。お前なら、きっといい当主になられるよ」


兄には感謝しています。しかし、兄の目にはいつまで経っても私は可愛い小さな妹のままなのでしょう。


幼少の頃から兄に習い、訓練を積んできたおかげで、人より武術の心得はあると自負しています。それでも、前のめりにならざるを得ないほど、やらなければならないことは山ほどあるのです。

龍石なしでは、ろくに龍の力を扱えない——いいえ、龍石があっても上手く調節できない私に、どうして『どーんと構える』ことなどできるでしょうか。


龍の子であれば、龍石さえあれば誰でも『癒しの力』を扱えます。体内に龍素を取り込まずとも、自身の龍脈を通して、ただ願いを龍石に注げばいいのです。

……それなのに、どうして私の心は龍石に届かないのでしょう。


朱鯉池の鯉は、雨をものともせず水面を泳ぎ続けています。

鯉にも、人並みの感情はあるのでしょうか。悠々と流れる池の中で暮らすというのは、いったいどんな気持ちなのでしょう。私の目には届かない世界がきっとあの水の奥に広がっていて、彼らにも小さな迷いや悩みがあるのかもしれません。


私は……

誰かのために力を尽くせる自分でありたい。

必要とされる存在でありたい。


誰かを支え、守り、頼られる自分になるため、この学院で私は必ず龍の力をものにしなければなりません。


迷わず、ただ突き進むのみです。


鳥の鳴き声が耳に入り、ふと顔を上げると、いつの間にか傘を打ちつける雨音が小さくなっていました。


(……らしくないことを考えてしまいましたね)


ティアナならきっとあの悪戯っぽい顔をのぞかせて、

「雨がそうさせたのよ」

笑ってそう言うに違いありません。



石畳の細道を歩いていると、背後でかちかちと爪が石を蹴る小気味よい音がして、とっさに足を止めて振り返りました。


「ごめんなさい……あなたにはよくしてもらったのに、傘にも入れず。どうぞ中に入ってください」


立ち止まって傘を向けても、龍造犬は頑なにその場を動きません。

私は無理に誘うのはやめて、そっと歩き出すと、あの子もてくてくとついてきます。


あら?


もう一度立ち止まって振り返ると、首をかしげたまま動きを止めていました。

それでも尻尾だけはぴょんぴょんと楽しげに揺れています。

ようやく私は、遊ばれているのだと気づき、思わず声に出して笑ってしまいました。


「あなたを造った人は、きっと——」


こちらを見上げる龍造犬に声をかけかけたとき、遠くから呼ぶ声が響いてきます。


「ムギ!」


その一声が風を切ったかのように、あの子は私の横をすり抜け、尻尾をひと振りして石畳を駆け抜けていきました。


名を呼ぶその声に覚えがあります。気づけば私は歩調を速め、小道を駆けていました。


柵門の前にたどり着くと、ジュナ様がムギと呼ばれた龍造犬にきゅうきゅう甘えた声を上げながら飛びつかれ、少し呆れたように笑いながら受け止めていらっしゃいます。

待ちわびた犬が主人と再会したかのような光景に、私は目を細めてしばし見入ってしまいました。


けれど、よく見ればジュナ様の髪も服も雨でびしょ濡れではありませんか。

我に返って慌てて傘を差し出します。


「風邪をひかれたらどうされるのですか。お身体を大切になさってください」


ジュナ様はムギを座らせ、濡れた癖っ毛を指先でかき分けながら、ためらうような笑みをこちらに向けられました。


「フリージアさん。局所的な大雨だったんだ。隠れる暇なんてなくて、一瞬でびしょ濡れさ。だから、いっそこのまま楽しもうかなって」


「まあ、楽しむだなんて——。南端サウスエッジを担う御方のお言葉とは思えません。私と一緒に訓練場までいらしてください。そもそも、どうしてこんな雨の中を歩いておられたのですか」


私が詰め寄ると、ジュナ様は視線を泳がせ、濡れた髪をそっと指で押さえました。

そして観念したように、わずかに笑みを深めて口をひらきます。


「迷惑じゃなかったですか……ムギを、送り込んで」


「あっ、」

少し考えればすぐに分かることではありませんか。


「フリージアさんが朱鯉池から出てこなかったから、もしかして先生の言葉を聞きそびれたんじゃないかと思ってね。僕の早とちりで行き違いになるのは避けたかったし……おかげでムギが傘を渡せてよかった」


ジュナ様はムギの胴を抱き寄せてしゃがみ、背に尻尾が強く当たっても撫でる手をゆるめません。やがて八重歯をちらりとのぞかせ、くすっと笑いながら私を見上げました。


小雨はもう霧雨のようにか細く、差す意味もほとんどなくなっています。

私はジュナ様と身を寄せて入っていた小さな傘をそっと閉じ、胸の奥を鎮めるように静かに息を吸いました。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る