第10話 激情のままに

10 -激情のままに




まだ事態を完全に飲み込めず、わずかの動揺はあった。

だが日頃の鍛錬で身体に染みついた動作だけは決して裏切らない。


テオは思考よりも先に恩寵発動までの手順を済ませ、再び構えをとった。ただ正面にいるジュナに向け、指を鳴らすことだけに集中する。


背後でカツンと、靴底が地面を打つ音が響く。人形がまたも、主人の命令を無視して動き始めたのだ。


「動かないでください。すでに人形の実行権限は僕の手中にあります。これ以上続けても、良い結果にはならないはずです。どうか構えを下ろしてください」


ジュナの言葉に虚飾はなかった。落ち着いた物腰と余裕ある態度がそれを裏付けている。

——態度も、声も、表情も。すべてが癪に障る。


「どうだろう?人形に邪魔される前に君を撃ち抜けば、それが最善の結果になるだろうよ」


「いいえ、それは難しいでしょう。

指を鳴らせたとしても、発火までに1秒ほどの間が空くことは、先ほどので確認できました。ほんのわずかですが、その隙に龍造岩δデルタを操作して軌道を逸らすだけの時間はあります。だから——」


覚えた文章を暗唱するかのように淀みなく話すジュナの声が、ここで途切れた。次に発する言葉を慎重に選んでいるのか、沈黙が落ちる。

やがて固く握った拳を震わせながら、か細い声で続きを口にした。


「……ここで、手打ちにしていただけませんか?」




♦︎♢♦︎




パチン——。

指を弾く乾いた音が響いた。


灼熱の炉で溶かした鉄を思わせる粘性を帯びる紅蓮の炎が、渦を巻きながら圧縮を始める。


(どうして……)


ジュナは素早く龍造人形を操作してテオを床に押し倒し、うつ伏せにさせた。

放たれた紅蓮の炎は、訓練室の天井に激突し、凄まじい爆発音を轟かせながら火の粉を降らせた。


思惑が大きく狂ってしまった。

卑怯な手を使う卑怯な人間であっても、公爵家の子息ならば、不利を悟れば引き分けに応じるはずだと信じていたのに。


バロバロッサ家の人間にとって、決闘の敗北は社会的死を意味する。だからこそ、絶対に負けるわけにはいかない。一方で、テオにもアーリスト公爵家の子息としての体面がある。勝利で得られる名誉よりも、敗北による損害の方がはるかに大きいはずだ。

引き分けは、お互いにとってすべて丸く収まるはずの妥協案だった。


(今からでも間に合うか?いや、迷っている暇はない。大丈夫だ、僕の本心が伝われば……きっと)


膝丈まである黒いワンピースの上に白いレースのエプロンを重ね、胸元には『華王』の特徴を反映した赤いリボンが結ばれたメイド服姿の龍造岩δ型に、ジュナは再度命令を与える。

床に押さえつける力をわずかに緩めさせた。


「お願いします、ここで終わりにしてください。どうしても私は……決闘では負けるわけにはいかないのです。まだ怒りが収まらないのなら、決闘の後に私を好きなだけ殴ってください。抵抗はいたしません。お願いします、ボクは兄上を失望させたくないのです」


ジュナはここまで言い終えると、何の取り繕うこともなく本心を口にしてしまった羞恥心と、長時間にわたる『龍の力』の行使による著しい体力消耗のせいで、一気に倦怠感が押し寄せて来た。


気がつくと、まるで糸の切れた操り人形のように支えを失い、膝を崩して力なく床に座り込んでいた。



そんな中、鼻腔を独特な甘い香りがかすめた。

どこかで嗅いだことのある懐かしい香り

——それが、ふとある情景を脳裏に呼び起こす。


高く昇った太陽の光が、水面を白銀の鏡のように輝かせ、絹のようにしなやかな鮮血色の花を淡く映し出すしている。屋敷の奥に広がる『水景園』で、花はまるで光の中に溶け込むように儚げにゆらめていた。


ああ、そうだ……思い出した。この香りは『華王』だ。


(いや待ってくれ……そんなことあるはず……)


一瞬、ジュナは納得しかけたが、すぐにその考えを否定した。


華王には一切の香りがないことを、自分でもよく理解していた。『龍怜の儀』を執り行うため、華王が咲く『水景園』を毎回通っているが、こんな独特な甘い香りを嗅いだ記憶は一度もない。それなのに、なぜ自分は『華王』を連想してしまったのだろうか。



思索に耽っているうちに、ふとパチパチと、枝木が燃えてはじけるような小さな破裂音が響いているのに気づいた。

音のする方角から、音源がテオであることはわかっていた。しかし、決闘を平和的に終わらせるという提案が拒絶されてしまえば、もはや後には引けなくなってしまう。


言葉とは龍神の力さえ及ばぬ、死の克服のようなものだ。

一度口から出た言葉は、二度と取り消すことができない。

その恐ろしさの前に、ジュナはあえてテオの方をみないようにしてきたのだった。


だが恩寵を発動するつもりなら、止めなければいけない。

一生恨まれようとも、敗北するよりはましだ。


覚悟を決めたジュナは、意を決してテオへ振り返った。


しかし、目にしたものは予想もしなかった光景だった。


「何をなさっているのですか!?今すぐ龍脈を閉じてください!し、死ぬ気ですか!!」


銀製の指輪が、無力に床に転がっている。

本来なら龍の力の暴走を抑えるはずの指輪——それが落ちたということは、もはや暴走止める手立てが失われたことを意味する。


墨を吸った紙がじわりと広がるように、一筋の光さえ届かない深黒がテオの肌身にまとわりつき、次第に全身を包み込んでいく。輪郭が曖昧に溶け、どこまでが彼自身の身体で、どこからが闇なのか判別がつかなくなった。


その闇の侵食は、テオを拘束している龍造岩δ型にも及ぶ。闇に呑まれた龍造人形はしばらく痙攣するように震えた後、命が尽きたかのようにその場に倒れ伏した。おそらく、動力源である龍石が破壊されたのだろう。龍造人形は完全に命令を受け付けなくなった。


今まで螺旋階段から観戦していた生徒たちも、事態の重大さに気づいた。決闘中の見物人は静観するよう規則で定められていたが、「大変だ!」や「どうしましょう!」といった、悲鳴に近い荒々しい声が次々と響き渡った。


あの小さな破裂音は、間違いなく龍脈が焼き切れる音だ。

限界を超えて身体に龍素を取り込めば、堅牢さを誇るあの『龍牢』さえ、打ち破るほどの強力な力を手にすることができる。


しかし、それは諸刃の剣だ。龍脈が完全に焼き切れれば、二度と龍の力を使えなくなるだけでなく、命さえも危うくなる。


テオ・アーリストは、決闘で引き分けになるくらいなら、死すら厭わず狂気に身を委ねる男だった。


では、どうすればよかったというのか……?


水晶が黒く変煙したときに、これは事故なのだと平身低頭、ひたすら謝ればよかったのか。たとえ今後に遺恨を残すことになろうとも、引き分けの提案などせず、戦闘不能にしておけばよかったのか。


この事態を兄さんたちが知ったら、どう思うのだろう。

やはり、自分の不出来が招いた当然の報いだと評価されるのだろうか?


テオの身体にまとわりついた闇は、ついに全身を覆い尽くし、完全な『影』へと変貌した。


——龍の力の暴走。

何度も読み返した絵本の中の光景が、まさか自分の目の前で現実となって姿を現すとは、ジュナは思いもよらなかった。


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