世界樹の聖女は嘘をつく ~優しい嘘の紡ぎかた~

音無 雪

第1話 偽りの聖女


わたくしは、周りの方々から聖女と呼ばれております。


世界樹の聖なる加護を頂き、術を発動する聖女。【世界樹の聖女】でございます 。


聖女の術により心と身体を癒やすことを得意としている、などと言われております 。



腰まで伸ばした黒髪に、聖なる紋様が刺繍された純白のドレスを身に纏い、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。まるで物語から抜け出してきたかのような、絵に描いた聖女。

それが、世間が私に抱くイメージ。


けれど、本当の私は違う。


始まりは、ほんの些細な出来心。愛する妹を安心させたい、ただそれだけのために吐いた、いたずら交じりの小さな、小さな嘘 。


その嘘が、妹の純粋な憧れと奇跡的に重なり合ってしまった 。盲目に私を信じるその瞳に、私は真実を告げる勇気を失い、周りに流されるまま「聖女」という偽りの称号を受け入れてしまった 。


もちろん、それが偽りの称号であると、私自身が一番よく分かっている 。


私は、嘘つきだ。

嘘で塗り固められた、偽りの聖女なのだ。


だから今、「聖女の術」を乞われているこの状況で、私の心は鉛のように重く、深く沈んでいく 。



あの日の出来事を、思い出さずにはいられません。


あの日も、今日と同じように大粒の雨が窓硝子を叩いていた。


――――


出かける当てもなく、自室のソファに深く身を沈め、雨に煙る庭を眺めておりました。水族館の巨大な水槽をぼんやりと眺めているような、現実感の乏しい午後。庭の隅に佇む楠の巨木――いつしか百合さんが「世界樹」と名付けたあの大樹 も、雨に濡れて深緑の色を濃くしている。部屋に満ちた月下美人の香水の甘い香りだけが、私の意識をこの場所に繋ぎとめていた。


その静寂を破ったのは、唐突な来客を告げるインターホンの音だった。

モニターに映し出された姿に、私は思わず眉をひそめた。


「雪ねえさま、この子がぁ……」


玄関の扉を開けると、そこには案の定、泣きじゃくった百合さんがびしょ濡れで立っていた。


私が実の妹のように、いや、それ以上に溺愛しているご近所の小学生、早川百合さん 。レースのあしらわれた白いブラウスも、可愛らしいプリーツスカートも無残に濡れそぼり、自慢の艶やかな黒髪が肌に張り付いている。この土砂降りの中を、傘も差さずに走ってきたのだろう。


「百合さん、びしょ濡れじゃない。どうしたの、こんな雨の中」


私の問いに答えるより先に、彼女は震える腕を差し出した。


「この子拾ったの……助けて……っ」


彼女の胸には、上着に大事そうに包まれた一匹の子犬がいた。ぐったりとして、ぴくりとも動く気配がない 。雨からこの小さな命を守ろうと、自分の上着で包んできたのだ。その健気さに胸が締め付けられる。


「……分かったわ。とりあえず中にお入りなさい。百合さんまで風邪を引いてしまうわ」


私は急いで部屋から一番大きなバスタオルを持ってくると、まずは子犬をそっと受け取った。温かいはずの身体は、雨のせいで冷え切っている。


「百合さんも、あなたもこれで拭きなさい」


もう一枚のバスタオルを手渡すと、彼女はこくこくと頷き、乱暴に身体を拭き始めた。けれど、その不安そうな瞳は、私の腕の中にいる子犬から一瞬も離れない。


子犬を抱えたまま私のプライベートルームへ移動すると、百合さんも小さな影のようについてくる。


まずは動物用の小型ヒーターの電源を入れた。以前、友人の茜が「何かあった時のために」と半ば強引に置いていったものだが、まさかこんな形で役に立つとは。乾いたタオルで子犬の身体を優しく拭き、ヒーターの前にそっと寝かせる。じんわりとした暖かさを感じたからだろうか、子犬はかすかに身じろぎした。


「……っ」


その小さな動きに、百合さんが息を呑む。

私も安堵のため息を漏らした。小さいけれど、これは柴犬の子犬だろうか。よく見れば、褪せた緑色の首輪をしている。迷子になってしまった飼い犬のようだ。


「大丈夫ですか…… 死んじゃったりしませんよね」


今にもまた泣き出してしまいそうな表情で、百合さんが私の服の裾を掴む。泣かないで、百合さん。あなたの美少女ぶりが台無しになってしまうわ。


「大丈夫よ。まずはシャワーを浴びてらっしゃい。服も乾かしてあげるから」

「でも……でも、この子が……」


なおも食い下がる百合さんの背中を押し、私は半ば強引にバスルームへと押し込んだ。


「言うことを聞かない子は、こうよ」


「きゃっ 雪ねえさま、くすぐったい」


小学生の美少女を無理やり脱がせてバスルームに放り込むなんて、我ながら随分とあぶないお姉さんである。濡れた服を脱がせるのは想像以上に大変だったが、これも彼女のためだ。服は乾燥機に放り込み、ひとまずは私の予備の部屋着でも着てもらうことにしよう。


急いで部屋に戻ると、ヒーターの前の子犬がうっすらと目を開けていた。見たところ、目立つ外傷はない。低体温で弱っていただけかもしれない。これなら、きっと大丈夫。


そう思った瞬間、ふと背後に人の気配を感じた。視線だけを動かすと、案の定、扉が少しだけ開き、その隙間から百合さんがこちらを覗いている。シャワー、まだ浴びていなかったのね。心配で心配で、居ても立ってもいられないのだろう。その気持ちは痛いほど分かるけれど、本当に風邪を引いてしまう。


言い聞かせただけでは、あの子は納得しない。

百合さんが心から安心できるようにするには、どうすれば良いのでしょうか。


――その時だった。私の心に、悪戯な神様が囁いたのは。

今思えば、どうかしていたのだ。このとんでもない思いつきは、きっとこの雨が見せた幻だったに違いない 。


百合さんは、異世界ファンタジーの物語が大好きだった。何度も同じライトノベルを読み返し、アニメの放送日にはテレビの前に正座して、食い入るように画面を見つめていた。聖女や勇者が魔法で人々を救う物語に、彼女はいつも目を輝かせていた。


……そう。それならば。


百合さんの愛読書に出てくる『聖女さま』。どうか、私に万能の魔力をお貸しくださいな。この子犬のため、そしてこの子犬を救おうとしている心優しい少女のために、聖なる力をお与えください。


私はゆっくりと目を閉じ、精神を集中させた。弓道で培った集中の呼吸を繰り返す。雑念を払い、意識を研ぎ澄ませていく。これから私は、百合さんが心から憧れる存在になるのだ。


『私は聖女、私は聖女、私は聖女……』


何度も、何度も心の中で唱える。私は癒やしの力を持った、聖なる存在。

そう自己暗示をかけ、私はゆっくりと目を開けた。

目の前では、弱々しく震える子犬が私を見上げている。あなたを助けてあげたいという、この気持ちだけは本物よ。この願い、どうか届いて。


私はゆっくりと両手を伸ばし、子犬の身体をふわりと覆った。手のひらに伝わる、かすかな体温。小さな命の鼓動。

もう迷いはなかった。私ははっきりと、それでいて厳かな声で言の葉を紡いだ。



「――聖なる力よ、小さき命に癒やしをっ 『ヒール』ッ」


もちろん、私は現代に生きるごく普通の一般人(永遠のじゅうななさい)だ。そんなことを叫んだところで、何の効果もないことなど百も承知。アニメのように足元から魔法陣が展開するわけでもなければ、神々しい金色の光が部屋を照らすわけでもない 。


それでも、私は叫んだのだ。

愛する妹を安心させるためだけに。


私の大声に驚いたのか、子犬がぴくりと身体を震わせた。その小さな瞳が、まっすぐに私を見上げている。気のせいか、先ほどよりも少しだけ元気が出たように見える。もちろん、それは聖女の術の効果などではなく、ヒーターで身体が暖まったからに違いないのだが。


さて。裸の美少女は、この茶番を信じてくれただろうか。

顔を動かさず、視線だけを扉の隙間に向けると、百合さんの姿はもうどこにもなかった。耳を澄ませば、バスルームの方からシャワーの水音が聞こえてくる。どうやら、大人しくシャワーを浴びに行ってくれたようだ。


百合さんの目には、今の私はどう映ったのだろう。ただの痛いお姉さんだと思われていないことを祈るばかりだ。


今のうちに、と私はスマートフォンを手に取った。電話の相手は、信頼できる親友の平野茜。動物の知識も豊富な彼女に状況を説明すると、幸いにも私の緊急処置に間違いはなかったようで、心底ほっとした。


『すぐそっちに向かうから』


電話の向こうで聞こえるのは、すでに車のエンジン音と私の家へ向かうようにと指示する声。その頼もしい行動力は、本当にありがたい。


この際だ。私は意を決して、茜に相談することにした。


「あのね、茜。今の一連の流れ、どうやら百合さんに見られていたみたいで……」

『へえ』

「私が聖女だってことが、バレてしまったようなのだけど……どうしたらいいと思う」


電話の向こうで、一瞬の沈黙。そして、こらえきれないといった風な笑い声が響いた。


『困ったねえ、お雪。いっそこの際、百合ちゃんを弟子にしてみたらどうかな。 聖女見習い、とか言ってさ』


……やはり、相談相手を間違えたようだ。百合さんが聖女好きなのを知った上で、完全に面白がっている。


――――


「雪ねえさま」

「はいっ」

「助けてくれて……ありがとうございました」


ドライヤーの乾いた音が止み、しばらくしてバスルームから戻ってきた百合さんは、深々と頭を下げた。私のぶかぶかのTシャツを着て、いわゆる「萌え袖」状態になっている姿は、反則的なまでに可愛い。心配で大泣きしたせいで、まだ少しだけ目元が赤いのも、庇護欲をそそられてしまう。


「どういたしまして。お礼が言えるなんて、偉いわね」


ヒーターの前で、先ほどよりもしっかりとした足取りで身を起こしている子犬を見て、百合さんの表情がぱっと明るくなる。


「さあ、ココアを入れたから、暖まりなさい」

「……ありがとうございます」


マグカップを受け取った百合さんは、こくりと一口ココアを飲んだ。だが、その視線はこちらに注がれたままだ。ちら、ちら、と私を窺うその視線。やはり、そうよね。


「雪ねえさまは……聖女さま、なのですか」


真っ直ぐな、一点の曇りもない瞳だった。疑いの色など微塵もなく、そこにあるのは純粋な憧れと、確信にも似た興奮の色 。



小学校も高学年だというのに、なんて純粋無垢な子なのだろう。そして、姉代わりの私を、心の底から尊敬してくれている。そんな姉が、周りに誰もいないと思っていた場所で「聖女の術」を使ったのだ。何の疑いもなく、私を本物の聖女だと受け入れてしまったのだろう。

このまま信じ込ませてしまうのは、さすがに心が痛む。


「……違うわよ」

「本当ですか。 聖女さまではないのですか」

「ええ、普通のお姉さんよ。小さな頃から、ずっと一緒じゃない」


そう。私はごく普通の、『じゅうななさい』の乙女なの。ここ、とっても大事なところだから。


それ以上の追及はなかったけれど、百合さんの瞳の輝きは少しも失われていなかった。彼女の中で、何かが完全に確信へと変わってしまったのが、痛いほど伝わってくる。


その時、タイミングよく玄関のチャイムが鳴った。


「子犬ちゃんは大丈夫かな」


嵐のように現れたのは、私の親友『爆乳姫子』こと平野茜だった 。彼女がどういう女性なのかは説明を省くが、とにかく母性に溢れた優しい友人である。


「茜……」

「百合ちゃんも、偉かったねえ。ずぶ濡れになって、この子を守ったんだって」

「……はい。でも、雪ねえさまが助けてくれました」

「そうだね」


茜はにっこりと微笑むと、百合さんの頭を優しく撫でた。そして、私にだけ聞こえるように、悪戯っぽく囁いた。


「『聖女の術』は無事に成功したみたいだけど……念のため、ちゃんとお医者さんにも診てもらいましょ」

「はいっ お願いします」


元気に返事をする百合さん。

茜はちらりと私を見て、勝ち誇ったような、それでいて全てを包み込むような笑顔を向けた。そのしたり顔、やめていただきたい。


こうして、私の共犯者が、また一人増えてしまったのだった。


この後、子犬は茜が懇意にしている動物病院で診察を受け、すっかり元気に。首輪についていた迷子札から無事に飼い主も見つかり、涙の再会を果たしたと聞いている。


ほんの小さな、嘘だったのだ。

可愛い妹を安心させたい一心で吐いた、最善だと思い込んだ嘘。

けれど、嘘は嘘だ。


あの日以来、私は百合さんにとって本物の「聖女さま」になった。そして、その状況を面白がった茜や他の友人たちが尾ひれをつけ、「世界樹の聖女伝説」なるものが作り上げられていった 。


私は、嘘つきな聖女だ。

その偽りの称号を、今もまだ、脱ぎ捨てることができずにいる。

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