青の向こう、魔法の街で

棟方怜

第1話 命の終わりと、魔法の始まり

天井から見下ろす自分は、こんな顔をしていたのか。

頬はこけ、肌は黄みを帯びている。腕には針が刺さり、点滴がつながっていた。針の周りには、うっすら赤いにじみが浮かんでいる。


ベッドに横たわる“わたし”からは、きっと鼻をつくような病室特有の匂いがしているのだろう。

けれど、上空からそれを見下ろす“わたし”には、もう匂いも感覚も届かない。身体は透け、壁も天井もすり抜けてしまう。──いわゆる幽体離脱というやつだ。


(……匂いが分からないのは、せめてもの救いかな)


つい数か月前まで、患者を助ける側だったのに。

今は白く囲まれたベッドの上に、ぽつんと寝かされている。

そして──この先、どう衰弱していくのかが分かってしまうのが、なおさらつらい。

涙すら出ない。ただ、胸の奥にずしりと沈むやるせなさだけが残っている。


ベッドのそばでは、両親がわたしの手を握っていた。

耳元のスマートフォンからは、この空間にはそぐわないポップスが流れている。

意識がないはずのわたしの指が、時折ぴくっと反応する。痙攣じゃない。きっと、“推し”の曲に反応しているだけだ。……なんとも、わたしらしい。


──ピピピピピピピピ!


胸に貼られた赤・黄・緑のコードがモニターへとつながり、心拍が波形になって映し出される。


(ああ……これで、本当に終わるんだ)


波打っていた線はやがて一本の棒線に変わり、“ピー”という無機質な音が空気を切り裂いた。

同時に、宙から見下ろしていたわたしの輪郭が、徐々に透明になっていく。


「人は死ぬとき、誰もが後悔する」──昔、本で読んだ言葉が脳裏をかすめる。

本当にそうかもしれない。

もっと我がままを言ってみたかった。

看護師になったことは後悔していない。でも、心からやりたかったことってなんだったのか、考える暇もなかった。

進学も就職も、ずっと親の期待を気にして。

嫌われたくない、失望されたくない……。

他人の目ばかり気にして、わたし自身の気持ちはいつも後回しだった。


(もしまた生きられるなら──今度こそ、自分の気持ちを優先して生きたい)


指先、足先、髪の一本一本までが、空気に溶けるように消えていく。

最後まで残っていた“わたし”の意識も、すうっと蛍光灯の光へと吸い込まれていった。



──ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。


耳に馴染んだ機械音で、ぱっと目が覚めた。

光がまぶしくて視界がかすむ。最後に目を開けたのがいつだったかなんて、まったく思い出せない。


(……腕がチクっとする)


右腕を見ると、点滴の針が刺さっていた。

ここが病院であることは、すぐに理解できた。


(……生きてる……!?)


胸の奥から熱がぶわっとこみ上げる。

まさか、本当に奇跡が起きたなんて──。

起き上がろうと腕に力を込めた瞬間、身体はあっけないほどすんなりと持ち上がった。


(……なんで?)


あれだけ衰弱していたはずなのに、まるで嘘のようだ。

腰をずらして体勢を整えると、天井も壁も見覚えがない。壁は木目調で、どう見ても日本の病院ではなかった。

さっきまでの高揚が、少しずつ現実のざわめきに押し戻されていく。


けれど、点滴の冷たさだけは確かに感じる。

袋に書かれている文字を見ようと視線を移す──が、それは見たことのない言語だった。


(ここ、どこ……?文字も読めないって、ことは……日本じゃない?)


ゆっくりと首をめぐらせる。

心臓の鼓動が、耳の奥でどくどくと響いていた。

壁から伸びたコードの先に、スイッチのようなものがぶら下がっている。──ナースコール、だろうか。


この部屋には、わたしひとり。

押すしか、選択肢はなかった。


喉がひりつくほど乾いていることに気づく。息をひとつ吐いて、勢いをつけてボタンを押した。


──パタパタ、ガチャン。


上下紺のスクラブを着た女性が、慌ただしく入ってきた。

なにかをまくしたてるように話しかけてくるが──


「ジェラーレ……スパラーレ?」


まったく理解できない。


(やっぱり……日本じゃない。しかも英語でもない……どうしよう)


その瞬間、こめかみに鋭い痛みが走る。

冷たい針で脳をなぞられるような不思議な感覚。──次の瞬間、声が脳内に直接響いてきた。


「──おめでとう!また一つ、チャンスを手にしましたね。今度こそ、自分の気持ちを最優先に──そう願ったでしょう?」


(……え?)


「この世界で生きるための“最低限の理解力”をあなたに与えました。さあ行きなさい、これはあなたの人生です!」


少し高くて、どこか幼さの残る声。

そのとき、目の前の女性がわたしの肩にそっと触れた。


「あの、大丈夫ですか? 頭が痛いのかな……でも、言葉が通じてないみたいで……」


──わかる。

さっきまで理解できなかった言葉が、自然に頭へ染み込んでくる。


「……あ、はい。大丈夫です。頭も痛くありません」


「ああ、よかった!てっきり言葉が通じないのかと思って焦りました」


「あの……ここって、病院ですよね? 場所がわからなくて……」


「そうなんですね……ここはラニーセントラル病院です。今、ドクターを呼んできますね。

それと、救急車を呼んでくれた方を第一連絡先に設定していますので、そちらにも連絡しておきます」


「あ……はい、わかりました」


彼女が小走りで部屋を出ていき、扉が静かに閉まる。

ひとりきりになった途端、へなへなと力が抜けてベッドにもたれた。


(ちょっと待って……ここ、日本じゃない。

しかも、わたし──お金、何も持ってないんだけど……大丈夫なの?)


現実味のない展開に、頭がついていかない。

まるでライトノベルみたいだ。でも──


(……本当に、生きるチャンスをもらえたのかな)


ふと視線を上げる。点滴のボトルに目をやると、さっきまで読めなかった文字が自然に理解できた。


「……輸液用、魔法維持液……? “魔法”?って、あの……ファンタジーの……?」


(火とか、杖とか、空飛ぶとか、そういう──やつ?)


思考がふわふわと現実から離れていく。

頭がぽうっと熱を帯び、ため息が漏れた。


──コンコン、ガチャ。


先ほどの看護師とドクターが再び現れ、診察が行われる。

結果は栄養失調。点滴が終われば、退院してもいいという。


(……ありがたいけど、退院したところでこのあとどうすれば)


不安と希望とが混ざり合って、涙も出ない。

ただ、点滴の雫がぽた、ぽたと落ちる音だけが、やけに鮮明に響いていた。

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