まちがいさがしの子
白毛
第1話 最初の声
午前二時四分。
液晶モニターの青白い光が、田村沙織の頬を不健康な色に染めていた。三か月と十二日前から、彼女の世界はこの六畳間のワンルームマンションに収束している。外の世界との接点は、宅配便の受け取りと週に一度のネットスーパーの荷物だけ。それすらも、インターホン越しの短い会話で済ませている。
「また明日でいいか」
沙織は小さくため息をついて、画面上の企画書のファイルを保存した。在宅でのWebデザインの仕事は、彼女にとって理想的だったはずだった。満員電車に揺られることもなく、面倒な人間関係に悩まされることもなく、自分のペースで働ける。そのはずだった。
しかし現実は、境界のない労働時間と、終わりの見えない孤独感だった。クライアントからのメールは深夜でも容赦なく届き、修正依頼は次から次へと舞い込む。気がつけば一日中パソコンの前に座り、外の世界の変化を感じることもなく時間だけが過ぎていく。
部屋の中は薄汚れていた。洗濯物が椅子に積まれ、コンビニ弁当の空き容器がデスクの端に放置されている。窓のカーテンは三日前から閉じたままで、外が昼なのか夜なのかも、時計を見なければわからない。
沙織は首を左右に振って、こわばった筋肉をほぐそうとした。肩甲骨の間に鈍い痛みが走る。運動不足と同じ姿勢の継続で、体は確実に悲鳴を上げていた。
「ちょっと休憩しよう」
立ち上がろうとした時だった。
「違いを見つけて」
声が聞こえた。
高い、子供の声だった。隣の部屋からだろうか。沙織は壁に耳を当てた。隣室には大学生の男性が住んでいるはずだが、夜中に子供の声というのは不自然だった。しかし、最近は生活リズムが狂いがちで、感覚も鈍っている。聞き間違いかもしれない。
沙織は再び椅子に座り直した。企画書の修正箇所をチェックしていると、また集中が途切れる。最近は三十分と集中が続かない。以前は一つのプロジェクトに没頭すれば、気がつくと夕方になっていることもあったのに。
コーヒーでも淹れようかと思った時、再び声が聞こえた。
「違いを見つけて」
今度ははっきりと聞こえた。確実に子供の声だった。隣の部屋ではない。もっと近い。この部屋の中から聞こえたような気がした。
沙織は振り返った。六畳間を見渡しても、当然ながら誰もいない。テレビは消してあるし、ラジオもつけていない。スマートフォンからも音は出ていない。
「疲れてるんだな」
呟いて、沙織は首を振った。三か月間の引きこもり生活で、確実に精神的なバランスを崩しかけている。幻聴が聞こえるのも、おそらくストレスの一種だろう。
大学時代の友人たちは、今頃どうしているだろうか。就職してから疎遠になり、最後に連絡を取ったのはいつだったか思い出せない。SNSは見ているが、みんな充実した日常を投稿していて、コメントする気になれない。自分だけが取り残されているような気がして、次第に見るのも億劫になった。
母親からの電話も、最近は出ていない。「元気にしてる?」「ちゃんと食べてる?」という何気ない質問に答えるのが辛い。元気ではないし、ちゃんと食べてもいない。しかし、それを正直に話したところで、心配をかけるだけだ。
沙織は企画書に視線を戻した。クライアントから依頼されたのは、地方の小さな会社のホームページリニューアル。特に個性もない、ありふれた案件だった。しかし、生活のためには断ることはできない。
文字を追っていると、再び意識が散漫になる。同じ段落を何度も読み返し、内容が頭に入ってこない。集中力の低下は、ここ数週間で著しく進行している。以前なら一時間で終わる作業に、三時間もかかってしまう。
時計を見ると、午前二時十八分。外は静寂に包まれ、時折車の走る音が遠くから聞こえるだけだった。この時間帯は、世界が自分一人のもののような錯覚を起こす。同時に、自分が世界から取り残されているような孤独感にも襲われる。
沙織は立ち上がり、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開けると、ペットボトルの水と、三日前に買ったサンドイッチが入っている。サンドイッチは消費期限が過ぎていたが、他に食べるものがない。
水を一口飲んで部屋に戻ろうとした時、三度目の声が聞こえた。
「違いを見つけて」
今度は、確実にこの部屋の中からだった。
沙織は凍りついた。部屋の中を見回すが、やはり誰もいない。しかし、声は確実に聞こえた。幻聴にしては、あまりにもはっきりとしていた。
心臓の鼓動が早くなる。手のひらに汗がにじんだ。
「違いを見つけて」
四度目の声。今度は、声の方向がわかった。パソコンデスクの近くから聞こえている。
沙織は恐る恐るデスクに近づいた。モニターには企画書が映し出されている。キーボードとマウス、コーヒーカップ、散らばった書類。いつもと同じ光景だった。
しかし、何かが違う。
沙織は必死に記憶を辿った。さっきまでここに座っていた時と、何が変わったのか。コーヒーカップの位置か。書類の重なり方か。それとも、モニターの角度か。
考えれば考えるほど、わからなくなる。記憶というものの曖昧さを、初めて実感した。普段何気なく見ている風景でも、いざ「違い」を探そうとすると、何が正しかったのかわからなくなる。
「気のせいよ」
沙織は自分に言い聞かせた。ストレスと疲労で、感覚が麻痺している。早く寝て、明日は少し外の空気を吸おう。そんなことを考えながら、椅子に座り直した。
企画書の修正作業を再開しようとした時、五度目の声が聞こえた。
「違いを見つけて」
今度は、すぐ耳元で囁かれたような気がした。
沙織は振り返った。当然、誰もいない。しかし、確実に誰かがそこにいたような気配を感じた。空気の動き、温度の変化、存在の痕跡。
部屋の中に、自分以外の誰かがいる。
そんな確信が、沙織の中で徐々に膨らんでいった。
時計の針は、午前二時二十八分を指していた。長い夜は、まだ始まったばかりだった。
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