歯車 〜愛に狂ったある男の話〜 | エッセイ

シロハル(Mitsuru・Hikari)

ある男の話である。

 ある男の話である。


 私と彼は、中学生の頃からの友人だった。初めて出会った音楽仲間でもある。学生時代は、彼の祖父母の家や私の実家の離れで、歌やギターを練習したり曲を作ったりして楽しんでいた。他にも、二人がパーソナリティを務める私たちだけのラジオ番組をカセットテープに吹き込んで、繰り返し聴いては笑い転げたりもしていた。


 高校卒業後、彼は地元の工場で働き始めた。入社してすぐ、職場の人間関係に悩み始め、ストレスが溜まった彼は、車に情熱を注ぎ始める。熱を上げた彼は、すっかり走り屋への階段を登っていった。毎晩のように、改造したスポーツカーで深夜の峠を駆け抜ける。何度か大きな事故を起こしたこともあったが、その死と隣り合わせなスリルが快感らしいのだ。


 彼は車で東京にある私のアパートまでよく遊びに来た。夕方か夜に到着し、ペーパードライバーだった私を助手席に乗せて朝までドライブ。約束していないのに突然現れることもあって、その度に私をひどく困らせた。それでも彼とのドライブは、幼い頃に秘密基地に入るときのような、新鮮でわくわくする気持ちにさせられる。

 車窓から眺める東京の夜景は、いつも見ているそれとは違って見えた。高層ビルの窓明かりは、それぞれが個別の物語を宿した無数の魂のように瞬き、都市の脈動を伝える。私はこの街で生きて闘っているのだと、自分の小ささを感じると共に誇らしくもあった。

 私たちは現実から逃げるかのように、知らない道を選んで初めて出会う景色に心を預けた。それでも畢竟、辿り着く場所はいつも伊豆の海だった。彼は車から降りると、堤防に腰掛けて煙草に火をつける。波音しか聞こえない静寂に身を委ね、吸い込まれそうな漆黒の海を前に、じっと遠くを見つめながら、ゆっくりと煙を吐き出す。

 彼は何も語らない。こうしている自分が好きなのだと思う。自分自身を映画かドラマの何かのシーンと重ねるように俯瞰して、うっとりと酔いしれているように見える。私はそれを邪魔しないように、ぼうっと夜空や海を眺めているのだった。


 しばらくして車に戻ると、二人で声を張り上げて歌をうたった。ふざけて窓を開けて歌って、歩いている人を驚かすこともあった。(ごめんなさい……。)

 時折、カップルを見かけると、彼は馬鹿にするような言葉を口にした。


「あいつら、イチャイチャしやがって。ねえ、みっちゃん。俺、思うんだよね。男はさ、黙って背中で語るものだよ。ストイックじゃなきゃ。女にうつつを抜かしてる奴らは、本当の幸せなんか、わかっちゃいない」


 その言葉を聞いて、羨望が混じっているのを感じなかったわけではない。性欲が強く惚れやすい性格なのに、これまで恋愛をしたことのなかった彼は、気になる女性がいても想いを告げることをしなかった。彼は孤独を美徳としている節があった。

 私のアパートに近づく朝方、彼はいつも決まって浜田省吾のバラード曲を流した。煙草に火をつけ、海と対峙していたときのような目をして黙り込む。彼は孤独を演出し、自ら深い感傷に浸る。そんな自分を男らしいと思うナルシシズムを大事にしていた。


 その後、特に理由はなかったが、次第に彼とは疎遠になっていった。が、およそ三年後。二十三歳のときだった。突然、久しぶりに彼から電話があった。


「元気にしてる?」


 彼は挨拶もそこそこに、自身の近況をつぶさに語り始めた。

 最近、彼の働く工場に派遣社員として四十代の女性が入社した。彼女と同じチームで働いていて、お互いにプライベートの話をするほど仲良くなったのだという。彼女はだいぶ前に伴侶を亡くしており、女手一つで一人息子を高校まで育ててきた。ヤンチャをしていた面影はあるものの、細い体躯に、どこか儚さのある目をした美しい人。そんな彼女に恋をしたのだ。


「よかったね」と、最初は彼がついに恋愛にも関心を向けるようになったことに安堵したのも束の間、話していると、どうやら様子がおかしいことに気づいた。


「彼女は……俺のこと好きだと思うんだ」


「えっ」


 疑問を持ちながらも、質問はせずに彼の話に耳を傾けていた。が、何を根拠に言っているのかわからなかった。彼には、彼女の言動すべてが好意を示していると感じているようだった。

 例えば、仕事中に彼女はいつも遠くから自分の方ばかりを見ている、彼女はプライベートな話を自分だけに特別に話してくれている、喫煙所でもわざと自分の近くに来て煙草を吸っている、といった調子である。


「彼女に『モテますよね? 綺麗ですもんね』って言ってみたんだ。そしたら、彼女なんて言ったと思う? 『そんなことないです。あなたの方がモテそうですよ』だって。俺にこう言うってことは、やっぱ、俺のこと好きだよね?」


 私に「そうだね」と回答してほしいのはわかっている。だが、そんな無責任なことは言えるはずもなく、「気になってしまうよね」と言うに留めた。

 それから、彼から連絡が頻繁に来るようになり、電話は毎日のように鳴り続けた。


「昨日、彼女が仕事中に倒れたんだ。検査しても異常はなかったみたいだから、おそらく過労だと思う。彼女の背負ってるものは、俺の計り知れないくらい本当に大きいと思うんだよね。だから、俺、さっきメールしたんだ。『僕があなたを守ります!』って。ねえ、みっちゃん。なんて返事来ると思う? こんなこと言っちゃ不味かったかな?」


 彼女とのメールのやり取りを私に話し、相手がどう思っているのかといった相談がとても多かった。他にも、彼女が他の男性と話している姿を目にすると、嫉妬心で感情が爆発してしまうと話すこともあった。

 彼女と話し終えた社員を追いかけて、


「おい! てめえ今、何話してたんだよ? 大した用もねえのに、彼女に近づくんじゃねえよ」


 と、胸ぐらをつかむ。社員たちを萎縮させて、彼女に男が近寄らないように圧をかけているという。同僚や先輩関係なく、彼女と話した男を彼は決して許さなかった。

 彼が休みで彼女だけが出勤の日は、不安でいっぱいになり、家でじっとしてはいられなくなる。酒を浴びるほど飲んだ後、車を走らせるそうだ。


「こうなったのは、クソどものせいだ! あいつら、みんな彼女を狙ってる。彼女とセックスすることばっか考えてるんだ!」


 受話器越しに怒鳴る声が響いた。息が荒く、何か硬いものを叩く音が混じっていた。


「それなのに、俺は純粋に彼女のことを愛しているのに……あいつらは、俺のことを哀れで馬鹿な男だって噂してる。なんでかって? あいつらの目を見ればわかる」


 皆が、彼女を性的な視線で見ている。皆が、自分を嘲笑している。

 彼の見える世界は光が失われ、どんどん暗い影に侵されていった。

 彼は孤独だった。彼の美徳としていた孤独とは明らかに違う孤独だ。

 彼の求めていた孤独と、現在の孤独とは何がどう異なるのだろう。


 数ヶ月が経ち、久々に会った彼は、髪を茶色に染めて、ストレートパーマをかけていた。眉毛も細くなっており、高そうなネックレスを身に着けていた。

 一緒に酒を飲みに行くと、彼の目は笑わなくなっていた。電話で聴いていた彼の話題は断片的なものであり、その日常は一変していた。

 喫煙所に一人で煙草を吸っている女性がいると、彼は近くに寄って声をかける。そうやって街中でナンパをしたり、出会い系サイトで知り合ったりして、たくさんの女性を抱いていた。

 彼は、その度に目の前に黒い靄のようなものがかかり始め、気づくと相手の女性の顔を殴りつけているのだという。明らかなDVである。その瞬間は、それが愛だと思い込んでしまうのだと、色を無くした目で語る。

 彼が殴りつける映像が、しばらく頭から離れなかった。暴力を受ける女性の心情を思うと、激しく胸が締め付けられる。明らかに彼が悪いのはわかっている。それでも、どうしても彼を責めることができなかった。

 それは、これまでの経緯を知っていることと、もう一つ理由があった。左腕にある無数の赤黒い線である。私が目を逸らすと、彼は「気づいた?」と、にやりと笑った。自傷行為を始めるようになっていたのだ。


 彼に会う度に、腕の傷痕はどんどん増えていた。時には顔にもたくさんの切り傷を作り、愛に飢えた歪んだ精神世界が露わになっていた。

 私は彼に精神科の受診を勧めることにした。実際に通い始めて薬も服用するようになったが、何も効果がないと苛立っていた。

 次第に怒りの矛先は私にも向かうようになっていった。


「はっきり言えよ! 彼女は俺のことを好きなのか、そうじゃないのか」


 私に対して溜まっていた不満をぶつけるように語気を強めた。荒くなった鼻息まで聞こえてくる。


「いや、だから、わからないんだってば。会ったこともない人の気持ちを、君の言葉だけで判断することはできないよ。それで俺が好きだよって言えば、君は満足するんだろうけど、そんな無責任なことはしたくない。わからない、それしか言えないよ」


「ふざけるな! もう話もしたくないわ!」


 電話越しから物が割れる音が聞こえた。そこで電話は切れた。

 鼻から大きなため息をつく。私の脈は速くなり、呼吸が浅くなっていた。

 彼の気持ちはじゅうぶん理解できた。私にも似たような気持ちになった経験があった。しかし、私は彼の感情に巻き込まれないように注意を払わなければならない。一緒に倒れてはいけないのだ。

 私の生活に支障が出ない範囲。それを境界線として、彼に寄り添い続けることを決めていた。


 すると数日後、先日の会話などまるでなかったかのように、気まずさもなく、彼はまた同じような話を繰り返していた。私も同じ返答を繰り返すばかりだった。

 だが、このままでは彼を苦しみの連鎖から断ち切ることができない。そこで私は、彼女にはっきりと自分の想いを言葉にするよう勧めることにした。つまり、彼に告白をするよう伝えたのである。

 もやもやと答えがわからないで、得体の知れない妄想が広がっていくよりも、告白をして答えが出た方が前に進めると思ったのだ。

 彼は、しばらく沈黙した後、


「そうだよね……。もう、それしかないよね」


 と、その言葉に対して抵抗なくすんなりと納得した。本当はわかっていたのだろう。そうすることでしか彼女の愛を確かめることができないことを。


 数週間後、彼から電話が来た。


「『今は言えない。そのときが来たらちゃんと話す』だって。これって、つまり、どういうことかな? 子どもが成人したらOKがもらえるってことかな?」


「なんだろうね。ちょっと曖昧過ぎる返事だね……」


 はじめ、彼女の曖昧な返事に私も苛立ったが、改めて考えると、彼の精神が病んでいる今このタイミングで、交際することは彼女の精神的にも良い結果が望めるとは思えなかった。もしくは、断ったときの彼のダメージを慮ったのかもしれない。自殺してもおかしくない状況だった。

 彼にとっては、そのくらい、彼女がすべてだった。

 告白を勧めた私はなんて浅はかだったのだろうと、そのときに気づいた。彼女は曖昧な答えにするしかなかったのだ。その対応が最善だったのどうかはわからないが、彼は絶望することなく、返事を待つことに決めたのである。


 それから彼女はいつまでも、彼にその答えを話すことはなかった。


 あれから十五年くらい経ち、偶然にも彼と再開する機会に恵まれた。

 今年の四月、娘が幼稚園に入園した。その入園式で園児と保護者、先生方との記念撮影をする時間があった。先生に指示されたとおり、遊戯室の壇上に並ぶ。すると、隣から「お、みっちゃんじゃん」と声をかけられた。見ると、坊主頭で髭を生やした彼が赤ちゃんを抱っこしていた。

 十数年ぶりの再会にお互い喜んだ。と同時に、不思議なことに幼稚園へ向かう車内で、彼のことを考えながら運転していたから、とても驚いた。

 今、彼は家族を持ち、二人の子どもがいるようだ。


 その日の夜、電話をした。そこで彼がぼそっと放った言葉に、胸がきゅうと締め付けられた。


「みっちゃんちの離れで歌ってた時は、まじで青春だったと、今更ながらに思う」


 後日、予定を合わせて二人でカラオケに行くことにした。軽自動車でやってきた彼は、受付で禁煙の部屋を選んだ。煙草は子どものために辞めたのだという。酒も妻のために辞めたと照れながらも自慢気に話していた。

 カラオケの曲を途切れなく次々に入力していく。中学生の頃のように、どこまで高い声が出るかを競ったり無駄にシャウトしたりして、声を枯らしながら絶叫した。

 マイクを握る彼の腕には、無数の傷痕がまだ薄く残っていた。

 私はその傷痕を、今は愛おしく思う。

 それは、彼がこの人生において、誰かを強く愛した証だから。それが哀しみや淋しさの象徴だったとしても。


 カラオケが終わって彼の車に乗り込む。ふと後ろを見ると、リアシートの足元に空き缶が大量に入った袋があった。ラベルを見ると、すべて酒だった。


「あれ? 辞めたんじゃなかったっけ?」


「ああ……それは、昔飲んだのを捨てるのが面倒で、置きっぱなしにしてるだけなんだ」


 嘘をつくとき、彼は視線を外しながら身体を左側に捻る癖がある。そのことを思い出して、私は思わず軽く吹き出した。

 帰りの車内で、彼は浜田省吾のバラード曲を流した。


「俺、結局はハマショウの曲に戻っちゃうんだよね」


 そう言って、あの頃に戻ったように私たちは笑った。

 だが、あの頃とは明らかに二人とも状況が変わっている。

 たくさんの闇を知り、痛みを経験し、今もまだ彷徨っている。


 孤独だから、人を求めるのではない。

 人を求めるほど、孤独を強く感じるのだ。

 彼の美徳とする孤独は、誰かにそれを見てほしいという欲求があったのだ。

 もうそのことを知りながら私たちは共にいて、笑った。


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