I love me!

きせのん

自己肯定感lv99なタイプの人種

僕が好きなものは、僕だ。

僕は、僕自身が大好きだ。胸を張って言える。

自己肯定感が高いのはもちろんそうだけれど、それは自分を愛していることへの付随であって主体ではない。


こんなこと言っても引かれるだけだし、普段だったら絶対に語ろうとはしない。でもまあ、たまには良いだろうと思って書いてみることにする。知り合いにもほとんど知られることはないし。



まず、僕はいつから自分を愛しているのだろうか。

困ったことに、これがあまり記憶にない。中学の頃は、数年前はこんなに好きではなかったようには思う。生活アンケート的なもので「自分を好きですか?」と聞かれても「はい」と回答していたような記憶はない。むしろあの頃はちょっと病んでたので、あまり迷わずに一番否定する選択肢を選んでいたと思う。

ただそこからなにか、例えば大きなことを成し遂げて自己肯定感が高まったとかいう事はなかった。

むしろ何度も、小説を書こうとしてはめんどくさくて途中で放り出している。挫折ばかり経験しているはずだ。

それでもいつの間にか、僕は自分を好きになっていた。謎である。



次に、具体的にどこが好きかを語っていく。

自分で言うのもなんだが、顔は全然良い方ではない。鏡や写真で見ても、わーイケメン!とか可愛い!とか思うことはない。嫌いだと思うほどでもないけど。

突然だが、ここに都合のいい神がいるとしよう。その神が、「お前に『顔ガチャ』を引き直させてやろう」、と。日本人の中から新しい顔を与えてやろうと言ったとする。

そんなとき、「引き直す」人はどれくらいいるのだろう。とりあえず僕は、そちらの側には入らない。

しかし、これは断じて僕が自分の顔を愛しているからではない。ただ、今よりももっと好きになれない顔へなってしまうリスクが恐ろしいだけだ。


という訳で顔は特にタイプではないのだが、僕は自分の身体が好きだ。体ではなく、身体。ちょっと大事。

僕の中のニュアンスとして、なんとなく「身体」の方が部位に焦点を当てて丁寧に見ている感じがする。「体」というと、全体をざっくり表しているような雰囲気になってしまう。


特に好きなのは、手、腕、そして肋骨だ。全体として、現代の痩身志向に染まってるなぁとは思う。思うが、もう好きになってしまったのだからしょうがない。それにダイエットなどをしたことは一度もないし、これが自然体だから別に良いと思う。ありのままを愛するんだ。

今更これらを好きでなくなったところで、僕の自己肯定感が下がるくらいしか影響はない。


まず手と腕について。細い。手の甲の筋とか、力を入れると腕の内側に浮き上がる筋とかがはっきり出ているのがとても好きだ。見ていて楽しい。

ただしここにも謎はある。

細い、と言った。それがいいと。でも、それだけなら自分である必要性が皆無なのだ。世の中を見れば、もっと指や腕が細かったり綺麗な人なんていくらでもいる。街を歩いていてもちょくちょく見かける。

今の時代はSNSが盛んなのだから、多分調べれば好きなだけ見られるだろう。僕が大好きな、細い腕を。

ところで手腕ってどう見ても手+腕なのに、「手と腕」という意味を表せないのは不思議だなぁ、と今思った。こういう思いつきも自分を好きなポイントなのだが、今は身体の話題なので後で語ることにする。


閑話休題。世の中にはもっと美しい手が溢れているにもかかわらず、結局一番好きなのは自分の手だ。

こないだなんてパソコンを触っているとき、ふと唐突に「えっ、僕の手綺麗すぎ……?!」と思ったことがあった。なんならそのままの勢いで写真を撮って友達に送り付けた。ちょっと引かれた。悲しい。

日常のなかでこう思える瞬間があるというのはとても幸せなことで、自己肯定感の維持・向上に大きく役立っていると思う。


次に肋骨。ろっこつ、ではなく、あばらぼね、だ。身体と同じようなこだわりだけど、僕としてはこれも大事なことなのだ。

これも手と同じで、肋骨が浮いているのを見るのが楽しい。幾度にも渡る試行錯誤の結果、胸を張って大きく息を吸うと一番浮き上がって見えることが分かった。時間があるときはお風呂に入る前に脱衣所の鏡で眺めてたりする。

また服が薄いときは、服の上から手を当ててゴツゴツとした感触を楽しんだりもする。撫でるなら肌着がおすすめだ。滑らかな手触りで気持ちいい。


これも、好きな要素は手と同じだ。しかし、手や腕と肋骨には明確な違いがある。肋骨は、自分のものしか好きではないのだ。他人の肋骨などそう見る機会はない、というのも一因かもしれない。でもそれだけではない。

インターネット上で、肋骨が出ているキャラクターのイラストを見たことがある。自分でも、綺麗だと感じるに違いないと考えていた。しかし実際に目にしたとき、まず最初に湧きあがったのは「ちゃんとご飯食べて……!」という思いだった。瘦せすぎてて痛々しかった。

そんな事情もあって、僕は他人の肋骨にあまり魅力を感じない。

しかし自分自身であればどうだろう。きちんとご飯を食べていることは、他ならない僕が証明してくれる。安心して肋骨を楽しめるのだ。



次に、精神面の話へと移ろう。

まず話したいのは、自分の興味や好奇心だ。さっきも書いていて「手腕」が気になったが、こういった感じですぐいろいろなものが気になる。最近は、友達の影響もあって言語学にハマっている。なかなか面白いところに気が付くじゃないかと、よく分からない視点で思ったりもする—大好きな自分への贔屓目が入っていることは否定できないけど。


あとは、僕はなかなか奇をてらった行動をしがちだ。見ようによってはただの変な人だけれど、僕としてはこれも好きな要素のひとつなのだ。平凡な日常を過ごしているより、ずっと面白い。

ただし、結果として散々な結果になることもままあるけど。青じそドレッシングをヨーグルトにかけたのは失敗だった。

そういえばこの文章だって、まさか好きなものを語るコンテストで自分について語るような人はいないだろうと、面白いことをしようと思って書いている。後で見返して悶絶するかもしれないけど、多分大好きな自分がしたことだから許してくれるだろう、未来の僕は。


これに加えて好きな部分は、これだけ自分を好きなのに過度に自己中心的ではない—ただしこの文章全体に言えることだが、僕の自己評価なので信用性は知らない—ことだ。

ちなみにこの段落は僕のイメージへの弁明も含んで書いている。……というのを書くところも自分の好きな所だったりする。

話を戻して、ここに都合のいい悪魔がいたとしよう。そいつが、「お前のクラスのほとんどを殺すが1人だけは助けてやろう」とか言って、僕に生き残る人を決めさせようとしたとする。

その場合、僕は自分を選ばない。彼女がいるとかいったことはないけど、今のクラスで生き残らせたい順をつけるなら僕は3番目だ。自分よりも生き残った方が良いと思う人はいる。

とここで思ったのだけど、自分の好みで決めているという意味では自分勝手なのでは?

いや、この状況でサイコロを振り始める方がよっぽど変だから大丈夫か。自分の主観以外に判断材料はないのだし。



ここまで僕の好きな部分を語ってきたから、いかに僕の自己肯定感が高いかということは分かってもらえたと思う。

ではなぜそんなにも高いのか、ちょっと気が付いたことがある。


僕は、自分のいい所だけしか見ていないのではないだろうか。

身体的な話で言えば、自分の好きな部位しか認識していない気がする。例えば脚とか、あんまり好きじゃない部分のことは基本的に考えていない。

精神の話で言えば、好奇心が旺盛なのは飽きっぽいのの裏返しだし、奇をてらった行動は単純に変だし、自己中じゃないかは正直怪しい。

でも、今ここで気が付いたところですぐに忘れてしまうだろう。僕は自分の好きな部分しか見ないのだから。


恋は盲目だ、とはよく聞く言葉だ。あるいは、痘痕も靨、と。いきなり出されたら読めないだろうけど、あばたとえくぼってこんな漢字らしい。えくぼ、なのに何も可愛くない。厭、と同じ部分を使うのはよくないと思う。これじゃあ、あばたがえくぼに見えたところで大して可愛いと思わないのでは。

さて脱線したが、結局のところ言いたいことはこれだ。


僕は、僕に恋をしている。

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